2011年08月24日
紳助とヤクザ
最初に断わっておくが、ここの記事への感想を表ブログに書くのは遠慮してもらいたい。
このブログは、かんながらに登場する主人公「A」によるものだ。
・・・・・・・・
そうか、紳助引退か。
僕はテレビをあまり見ないけれど、彼の番組を見たときは必ず笑わせてもらった。
笑いというのはタイミングと、意外性と、場を見極めた感性によってもたらされるが、彼はまさに天才だと思う。
彼という人物に興味があるので、ちょっと書いてみる。
地位も名誉も財産も、全て手に入れた彼の人生観はどんなだろう。
手に入れて初めて、それが自分を根底から満たしてくれるものではないことを知るが、鈍感で臆病な者はそれでも同じ道を追い続け、敏感な者はある種の絶望感を持つことになる。
彼が数年前から後者の境地にいたことは、その存在の香りから伝わってきていた。
どこかの講演会で、いま悟りに一番近い有名人として彼の名を挙げたのを覚えている。
最近の彼が唯一持っていないものは、夢と希望だったと思う。
若手芸人たちに対して、「お前たちが持っているものでうらやましいのは夢だけだ」と言っていた。
頂点を極めれば、そこに何もないことを知ってしまうが、それは口に出せない。
だって、自分の人生が失敗だったことを認めなければならないからだ。
それは総理大臣や大統領も同じだ。
血のにじむような苦労を重ねてやっと手に入れたゴールが、ちっともゴールなんかじゃなかったのだから。
人が無意識に求めているのは、心の欠乏感を埋めることだ。
そしてそれは外側のいかなるものでも埋めることはできない。
真理を見抜くまでは無理だ。
それは皮肉にも、心の欠乏感が錯覚であり、最初から自分には足りないものが何一つなかったことへの気づきだ。
もし紳助がさとれば、彼の話術や影響力を考えれば時代が変わる速度が速まるだろう。
そしてその役目として、彼が一番近いところにいると思う。
他にも頂点を極めた有名人はいるが、凡庸な魂にはすべてを捨てる覚悟など持てようがない。
すべてを捨てると書いたが、それは引退するということではない。
今回の紳助は、たまたま引退という事実と重なったが、彼がすべてを捨てきったとは思っていない。
しかし、可能性は高い。
それは生きる真剣さであり、心の正直さを伴う。
残念ながら多くの成功者たちは、欺瞞と妥協の上に成功を手にしているので、その質が身に沁みついてしまっている。
彼らがさとるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい(新約聖書より)
さて、彼が引退した直接原因になったヤクザとの関係についてだが・・・
確かにこれが直接原因ではあるが、彼の心の背景には、先に挙げたような心境と、所属事務所や週刊誌や世間が持つ偽善性への一石もあったことだろう。
ヤクザの存在は迷惑極まりないが、彼らのような人種を作り出しているのは、他ならぬこの世の中でもある。
ヤクザと言っても、戦後数十年間でその実態は大きく変わってきていて、いまの日本ヤクザを構成している90%は、朝鮮系と被差別地域出身者たちである。
もちろんそのような境遇でも、実業界や芸能界で成功している人もたくさんいるが、これが現実なのだ。
我々はどんな社会を作ってきたのだろう。
言われなき差別を、いつまで続けるのか。
表面的にはだいぶ少なくなったが、まだ多くの人の心の中に差別という観念が息づいていることは否定できない。
ここであえて暴力団という言葉を使わずにヤクザと書いたのには意味がある。
最近のヤクザは経済ヤクザであり、暴力はたんなる脅しでしかないからだ。
むしろ若年層のチンピラのほうが、その暴力性は激しい。
なぜなら彼らは無知であり、後先を考える知能にも乏しいからだ。
昔のヤクザは、親兄弟(肉親ではなく彼らの世界での親兄弟)のために、命を張って復讐したり攻撃したりしたが、現代はそんなことで懲役を受け、大切な人生を檻の中で過ごそうと思う人間はいない。
そのような観点から見れば、最近のヤクザ社会における親兄弟の契りも、義理人情よりも損得によるものが多くなっている。
さて迷惑極まりない彼らだが、いち人間としては、また違う面を見せる時がある。
沖縄での講演会に、沖縄のとある組長が、若い者(子分)を引き連れて来たことがあった。
いちゃもんをつけに来たのではなく、一参加者として聴きに来たのだ。
理由は、刑務所の中で僕のラジオが流れていて、それでファンになったとか(笑)
そうか、いろんなところで流れているんだなって思った。
「よく来てくれたね」と笑って言うと、少しはにかんだような顔をしていた。
紳助が関わった人物の背景はまったく知らないが、少なくとも男の美学を大切にしている節がある。
それは紳助も同じで、社会からの批判はあるが、自分を助けて何の見返りも求めなかった者に対して、その恩をあだで返すような真似はしたくないという紳助の態度は、いまの世の中には見られなくなったと思う。
大手企業も政治の世界も、裏社会との関わりがなければ存在できない現実の中で、このように言いきった勇気には拍手を送りたい。
それと共に、彼の引退が、社会の欺瞞性の一端を見つめなおす機会になればと期待している。
僕は前々から、合法的ヤクザ(実際には違法行為があっても、つじつまを合わせて合法にしているだけだが)が政治家の世界で、違法ヤクザが暴力団だと思っていた。
そのうち合法的ヤクザの話でも書いてみようか。
それにしても昨日は、民主党の代表選に前原氏が出馬表明したが、今朝のニュースのトップが紳助の引退だというのは、何かを象徴している。
民主党の代表選は、実質的には次期総理を選ぶ選挙なのに、いかにこの国の政治が民衆から見放されているかの証だろう。
とりとめのない話になってしまったが、今朝思ったことをそのまま書いてみた。
ご意見、感想は、
kannagarablog@yahoo.co.jp
まで。
「A]
このブログは、かんながらに登場する主人公「A」によるものだ。
・・・・・・・・
そうか、紳助引退か。
僕はテレビをあまり見ないけれど、彼の番組を見たときは必ず笑わせてもらった。
笑いというのはタイミングと、意外性と、場を見極めた感性によってもたらされるが、彼はまさに天才だと思う。
彼という人物に興味があるので、ちょっと書いてみる。
地位も名誉も財産も、全て手に入れた彼の人生観はどんなだろう。
手に入れて初めて、それが自分を根底から満たしてくれるものではないことを知るが、鈍感で臆病な者はそれでも同じ道を追い続け、敏感な者はある種の絶望感を持つことになる。
彼が数年前から後者の境地にいたことは、その存在の香りから伝わってきていた。
どこかの講演会で、いま悟りに一番近い有名人として彼の名を挙げたのを覚えている。
最近の彼が唯一持っていないものは、夢と希望だったと思う。
若手芸人たちに対して、「お前たちが持っているものでうらやましいのは夢だけだ」と言っていた。
頂点を極めれば、そこに何もないことを知ってしまうが、それは口に出せない。
だって、自分の人生が失敗だったことを認めなければならないからだ。
それは総理大臣や大統領も同じだ。
血のにじむような苦労を重ねてやっと手に入れたゴールが、ちっともゴールなんかじゃなかったのだから。
人が無意識に求めているのは、心の欠乏感を埋めることだ。
そしてそれは外側のいかなるものでも埋めることはできない。
真理を見抜くまでは無理だ。
それは皮肉にも、心の欠乏感が錯覚であり、最初から自分には足りないものが何一つなかったことへの気づきだ。
もし紳助がさとれば、彼の話術や影響力を考えれば時代が変わる速度が速まるだろう。
そしてその役目として、彼が一番近いところにいると思う。
他にも頂点を極めた有名人はいるが、凡庸な魂にはすべてを捨てる覚悟など持てようがない。
すべてを捨てると書いたが、それは引退するということではない。
今回の紳助は、たまたま引退という事実と重なったが、彼がすべてを捨てきったとは思っていない。
しかし、可能性は高い。
それは生きる真剣さであり、心の正直さを伴う。
残念ながら多くの成功者たちは、欺瞞と妥協の上に成功を手にしているので、その質が身に沁みついてしまっている。
彼らがさとるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい(新約聖書より)
さて、彼が引退した直接原因になったヤクザとの関係についてだが・・・
確かにこれが直接原因ではあるが、彼の心の背景には、先に挙げたような心境と、所属事務所や週刊誌や世間が持つ偽善性への一石もあったことだろう。
ヤクザの存在は迷惑極まりないが、彼らのような人種を作り出しているのは、他ならぬこの世の中でもある。
ヤクザと言っても、戦後数十年間でその実態は大きく変わってきていて、いまの日本ヤクザを構成している90%は、朝鮮系と被差別地域出身者たちである。
もちろんそのような境遇でも、実業界や芸能界で成功している人もたくさんいるが、これが現実なのだ。
我々はどんな社会を作ってきたのだろう。
言われなき差別を、いつまで続けるのか。
表面的にはだいぶ少なくなったが、まだ多くの人の心の中に差別という観念が息づいていることは否定できない。
ここであえて暴力団という言葉を使わずにヤクザと書いたのには意味がある。
最近のヤクザは経済ヤクザであり、暴力はたんなる脅しでしかないからだ。
むしろ若年層のチンピラのほうが、その暴力性は激しい。
なぜなら彼らは無知であり、後先を考える知能にも乏しいからだ。
昔のヤクザは、親兄弟(肉親ではなく彼らの世界での親兄弟)のために、命を張って復讐したり攻撃したりしたが、現代はそんなことで懲役を受け、大切な人生を檻の中で過ごそうと思う人間はいない。
そのような観点から見れば、最近のヤクザ社会における親兄弟の契りも、義理人情よりも損得によるものが多くなっている。
さて迷惑極まりない彼らだが、いち人間としては、また違う面を見せる時がある。
沖縄での講演会に、沖縄のとある組長が、若い者(子分)を引き連れて来たことがあった。
いちゃもんをつけに来たのではなく、一参加者として聴きに来たのだ。
理由は、刑務所の中で僕のラジオが流れていて、それでファンになったとか(笑)
そうか、いろんなところで流れているんだなって思った。
「よく来てくれたね」と笑って言うと、少しはにかんだような顔をしていた。
紳助が関わった人物の背景はまったく知らないが、少なくとも男の美学を大切にしている節がある。
それは紳助も同じで、社会からの批判はあるが、自分を助けて何の見返りも求めなかった者に対して、その恩をあだで返すような真似はしたくないという紳助の態度は、いまの世の中には見られなくなったと思う。
大手企業も政治の世界も、裏社会との関わりがなければ存在できない現実の中で、このように言いきった勇気には拍手を送りたい。
それと共に、彼の引退が、社会の欺瞞性の一端を見つめなおす機会になればと期待している。
僕は前々から、合法的ヤクザ(実際には違法行為があっても、つじつまを合わせて合法にしているだけだが)が政治家の世界で、違法ヤクザが暴力団だと思っていた。
そのうち合法的ヤクザの話でも書いてみようか。
それにしても昨日は、民主党の代表選に前原氏が出馬表明したが、今朝のニュースのトップが紳助の引退だというのは、何かを象徴している。
民主党の代表選は、実質的には次期総理を選ぶ選挙なのに、いかにこの国の政治が民衆から見放されているかの証だろう。
とりとめのない話になってしまったが、今朝思ったことをそのまま書いてみた。
ご意見、感想は、
kannagarablog@yahoo.co.jp
まで。
「A]
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11:07
2011年08月05日
ご無沙汰でした
長い間お休みしていたこのブログを、また再開しようかと思います。
と言っても、頻繁に更新することはできません。
表ブログに書ききれないことを中心に、たまに書かせてもらいます。
初めて来た人は、こんな過去ログから読んでみてください。
戦争について・歴史について
宗教について
またお会いしましょう。
流れのままに
か・ん・な・が・ら
と言っても、頻繁に更新することはできません。
表ブログに書ききれないことを中心に、たまに書かせてもらいます。
初めて来た人は、こんな過去ログから読んでみてください。
戦争について・歴史について
宗教について
またお会いしましょう。
流れのままに
か・ん・な・が・ら
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09:10
2008年12月30日
2008年12月30日
わ・か・っ・た
そうだったのか!
みんな一つだったんだ!!
僕もあいつも敵も味方も、みんなみんな・・・ひとつだったんだ
本当はみんなで愛しあえるし、みんなで仲良くできるし、みんなで助けあえるんじゃないか
だってみんな同じ一つの命なんだから・・・
なぜこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
戦争・・・飢餓・・・生存競争・・・裏切り・・・喧嘩・・・憎みあい・・・
いったい僕達人間は何をやってるんだろう
・・・・・・・・・・・・・・
かんながらの物語を書いたのは1999年の暮れです。
その後2001年の2月になって、エピローグを書きあげました。
あれから10年近い時がたちましたが、世界はあのころのままです。
戦争・・・飢餓・・・生存競争・・・裏切り・・・喧嘩・・・憎みあい・・・
不景気になって贅沢ができないからと大騒ぎしている国があるかと思えば、違う国ではわずかな食べ物さえもなく、不衛生な環境で餓死していく子供たちが後を絶ちません。
相変わらず人は自分のことばかりを考えるのに忙しくて、もうひとつの現実は見て見ぬふりです。
僕たちは「ひとつ」です。
それは哲学ではなく、思想ではなく、事実なのです。
その事実に目覚めることが、世界をそして地球を救う唯一の道だと思っています。
この地上が愛で満たされますように。
合掌
そうだったのか!
みんな一つだったんだ!!
僕もあいつも敵も味方も、みんなみんな・・・ひとつだったんだ
本当はみんなで愛しあえるし、みんなで仲良くできるし、みんなで助けあえるんじゃないか
だってみんな同じ一つの命なんだから・・・
なぜこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
戦争・・・飢餓・・・生存競争・・・裏切り・・・喧嘩・・・憎みあい・・・
いったい僕達人間は何をやってるんだろう
・・・・・・・・・・・・・・
かんながらの物語を書いたのは1999年の暮れです。
その後2001年の2月になって、エピローグを書きあげました。
あれから10年近い時がたちましたが、世界はあのころのままです。
戦争・・・飢餓・・・生存競争・・・裏切り・・・喧嘩・・・憎みあい・・・
不景気になって贅沢ができないからと大騒ぎしている国があるかと思えば、違う国ではわずかな食べ物さえもなく、不衛生な環境で餓死していく子供たちが後を絶ちません。
相変わらず人は自分のことばかりを考えるのに忙しくて、もうひとつの現実は見て見ぬふりです。
僕たちは「ひとつ」です。
それは哲学ではなく、思想ではなく、事実なのです。
その事実に目覚めることが、世界をそして地球を救う唯一の道だと思っています。
この地上が愛で満たされますように。
合掌
Posted by Blog Ranking at
13:30
2008年10月24日
かんながら
そもそも、「かんながら」とはどういう意味なのでしょうか。
漢字では
随神
惟神
と書きます。
神と共に生きる
神の思し召すままに
神の御心に沿った生き方をする
そのような意味だと思っていいでしょう。
これは「Let it be」の態度であり、「南無」とか「帰依」とか「サレンダー」とかにも通じる世界観です。
そこには神、あるいは宇宙をつかさどる大いなる意志に対する、絶対的な信頼があります。
大昔から日本人は随神の道を、生きる指針としてきました。
勤勉で、まじめで、よく働くと言う国民性は、随神の道から生まれています。
おそらくは生活の中に、神とつながる何らかの習慣が根付いていたのではないかと思われます。
何故かと言うと、随神の道とは、自分に言い聞かせるだけでは限界があり、そこには神を感じる直接的な体験が必要だからです。
それが宗教的儀式であったのか、祭りの一種だったのかはわかりませんが、今では失われてしまった何かがあったと考えたほうが合理的です。
そこに仏教が伝来し、随神の道も少しずつ変化していったようです。
最近よく、「縄文に帰れ」という言葉を耳にします。
人間界の複雑なシステムに翻弄されることなく、もっと大地や命を感じるような生き方に戻ろうということです。
天河神社に奉公していた時、アイヌの人たちと、沖縄の喜納昌吉さんらと、満月の神殿でしこたまお神酒を飲み、歌い踊ったことがあります。
その時感じた世界は、まさに縄文のそれでした。
根源的な力とダイレクトにつながろうとする、そんな意志を感じました。
つづく
漢字では
随神
惟神
と書きます。
神と共に生きる
神の思し召すままに
神の御心に沿った生き方をする
そのような意味だと思っていいでしょう。
これは「Let it be」の態度であり、「南無」とか「帰依」とか「サレンダー」とかにも通じる世界観です。
そこには神、あるいは宇宙をつかさどる大いなる意志に対する、絶対的な信頼があります。
大昔から日本人は随神の道を、生きる指針としてきました。
勤勉で、まじめで、よく働くと言う国民性は、随神の道から生まれています。
おそらくは生活の中に、神とつながる何らかの習慣が根付いていたのではないかと思われます。
何故かと言うと、随神の道とは、自分に言い聞かせるだけでは限界があり、そこには神を感じる直接的な体験が必要だからです。
それが宗教的儀式であったのか、祭りの一種だったのかはわかりませんが、今では失われてしまった何かがあったと考えたほうが合理的です。
そこに仏教が伝来し、随神の道も少しずつ変化していったようです。
最近よく、「縄文に帰れ」という言葉を耳にします。
人間界の複雑なシステムに翻弄されることなく、もっと大地や命を感じるような生き方に戻ろうということです。
天河神社に奉公していた時、アイヌの人たちと、沖縄の喜納昌吉さんらと、満月の神殿でしこたまお神酒を飲み、歌い踊ったことがあります。
その時感じた世界は、まさに縄文のそれでした。
根源的な力とダイレクトにつながろうとする、そんな意志を感じました。
つづく
Posted by Blog Ranking at
10:37
2008年10月17日
一番言いたかったこと
そして最後に一番言いたかったこと・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
さあ、前に進みなさい
多くの人達に出会っていきなさい
この世にはあなた以上の人も、あなた以下の人も一人もいません
すべては<あなた>なのですから
したがって同胞との出会いと交流があなたにできる全てです
一人ひとりと正直に誠実に、真正面から開かれた関係性を作っていきなさい
やがてその関係性の中にあって共通の理解が生まれます
それはその時その人に必要な理解であり、さらに深く進む推進力です
その中にあって事は自然に展開していきます
そして多くの人達が『鍵』は最初から開いていたことを、そもそも心のドアなど存在しなかったことを理解するでしょう
真理はいつも明白です
何一つ隠されることなく、いつも目の前に展開しています
あなた方がわざと気づかない振りをして、幻想のゲームを楽しんでいるだけなのです
ほらごらんなさい
たった今、目の前に広がるこの壮大な神秘を!
以前はごく一部の選ばれた魂だけが、「悟り」と一つになることができました
そして今多くの魂達が目覚めの季節を迎えています
それは連鎖反応のように次々と大地に花開き、やがては地球全体を覆いつくしていくでしょう
その時、無数に分裂していた意識の破片が、大いなるひとつに統合されていくのです
そんな予感をすでに多くの人達が持ち始めています
やり方は簡単です
この先に進むのは想像よりはるかに簡単なのです
怖れを捨てて自分の「本当の声」を生きて下さい
それを始めたとたん事態は一変します
もうあなたは一人ではありません
同じ理解を生きる仲間達と全ての必要を満たしあうことができます
あなたがありのままでいればいるほど、事はますます楽になっていきます
そして自然に事が起こり出すのです
それは「随(かんながら)神」の道です
すべての自由があなたに与えられています
悟りさえもあなたの選択であり、あなたの自由です
誰もそれを妨げていません
目を醒まして今すぐ夢から覚めるのもよし
今のまま夢を見続けるのもよしです
心配ご無用
どちらを選んでも、必ずいつかは大いなる一つと一体化するのですから
正確には、今までもそして今もずっと一体だった事を思い出すだけですが・・・
だから大した事ではありません
「悟り」をあまり大げさにしないで下さい
この世にあなた以上の真理はなく、
あなた以上の神秘も存在していません。
実のところ全ての人々はすでに悟っています
ただそのことを忘れてしまっただけです
どこを探しているのですか?
私は『いま・ここ』です
・・・・・・・・・・・・・・・・
さあ、前に進みなさい
多くの人達に出会っていきなさい
この世にはあなた以上の人も、あなた以下の人も一人もいません
すべては<あなた>なのですから
したがって同胞との出会いと交流があなたにできる全てです
一人ひとりと正直に誠実に、真正面から開かれた関係性を作っていきなさい
やがてその関係性の中にあって共通の理解が生まれます
それはその時その人に必要な理解であり、さらに深く進む推進力です
その中にあって事は自然に展開していきます
そして多くの人達が『鍵』は最初から開いていたことを、そもそも心のドアなど存在しなかったことを理解するでしょう
真理はいつも明白です
何一つ隠されることなく、いつも目の前に展開しています
あなた方がわざと気づかない振りをして、幻想のゲームを楽しんでいるだけなのです
ほらごらんなさい
たった今、目の前に広がるこの壮大な神秘を!
以前はごく一部の選ばれた魂だけが、「悟り」と一つになることができました
そして今多くの魂達が目覚めの季節を迎えています
それは連鎖反応のように次々と大地に花開き、やがては地球全体を覆いつくしていくでしょう
その時、無数に分裂していた意識の破片が、大いなるひとつに統合されていくのです
そんな予感をすでに多くの人達が持ち始めています
やり方は簡単です
この先に進むのは想像よりはるかに簡単なのです
怖れを捨てて自分の「本当の声」を生きて下さい
それを始めたとたん事態は一変します
もうあなたは一人ではありません
同じ理解を生きる仲間達と全ての必要を満たしあうことができます
あなたがありのままでいればいるほど、事はますます楽になっていきます
そして自然に事が起こり出すのです
それは「随(かんながら)神」の道です
すべての自由があなたに与えられています
悟りさえもあなたの選択であり、あなたの自由です
誰もそれを妨げていません
目を醒まして今すぐ夢から覚めるのもよし
今のまま夢を見続けるのもよしです
心配ご無用
どちらを選んでも、必ずいつかは大いなる一つと一体化するのですから
正確には、今までもそして今もずっと一体だった事を思い出すだけですが・・・
だから大した事ではありません
「悟り」をあまり大げさにしないで下さい
この世にあなた以上の真理はなく、
あなた以上の神秘も存在していません。
実のところ全ての人々はすでに悟っています
ただそのことを忘れてしまっただけです
どこを探しているのですか?
私は『いま・ここ』です
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18:45
2008年10月15日
僕たちの役目
この宇宙には無駄なものは何一つありません。
一人ひとりの存在も、お互いの関わりも、出会いも別れも、すべて必要な時に必要なことが起きています。
それは至高体験の中で誰もが感じることです。
いままでの全ての出来事は、この「気づき」のために存在していた。
全ての人の存在理由も、まさに究極の意識に到達するためのものだった。
そのことに確信を持ちます。
僕たちが根っこで一つにつながっていること。
つながっていると言うよりは、まさに「同じひとつの存在」であることを僕たち全員が知る日が来ることでしょう。
その時に、人類の長年の夢だった、地上ユートピアの建設が始まるのです。
それが2012年に始まると言う人もいますし、もっと先の話だという人もいます。
少なくともそこに気づいた人たちが、まずは自分の縁ある人たちへ、気づきに向けた洞察を与えていくことだと思います。
僕たちが今生において何を職業にしようと、本来の役目はそこにあると思っています。
一人ひとりの存在も、お互いの関わりも、出会いも別れも、すべて必要な時に必要なことが起きています。
それは至高体験の中で誰もが感じることです。
いままでの全ての出来事は、この「気づき」のために存在していた。
全ての人の存在理由も、まさに究極の意識に到達するためのものだった。
そのことに確信を持ちます。
僕たちが根っこで一つにつながっていること。
つながっていると言うよりは、まさに「同じひとつの存在」であることを僕たち全員が知る日が来ることでしょう。
その時に、人類の長年の夢だった、地上ユートピアの建設が始まるのです。
それが2012年に始まると言う人もいますし、もっと先の話だという人もいます。
少なくともそこに気づいた人たちが、まずは自分の縁ある人たちへ、気づきに向けた洞察を与えていくことだと思います。
僕たちが今生において何を職業にしようと、本来の役目はそこにあると思っています。
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09:10
2008年10月12日
人生の選択
早いもので、もう7年半になります。
沖縄のラジオ局からのインタビューで、「もうライブはやらないのですか」と聞かれ、思わず「やりましょうか」と答えたのが2001年2月でした。
そう答えながら、もう一人の自分が「え!?マジで?」って驚いていました。
だってギターも弾けなくなっているし、声も出ないし、自分で作った歌の歌詞さえも忘れていたからです。
もしあの時、もう少し理性的な自分がいて、「歌ですか?それはすでに終わったことです」と答えていたとしたら、その後の人生は大きく変わっていました。
僕の人生だけでなく、家族全員の人生が変わっていました。
今沖縄に住んでいないことだけは確かです。
人生には自分でも説明つかないような選択をしてしまうことがあります。
しかも、その選択が人生全体に大きな影響を与えるのです。
人生に「もし・・・」はないと言いますが、それでも考えてしまいます。
もしあの時・・・
人生の筋書きは全部決まっているのでしょうか。
自分がその瞬間何を思い、何を考え、何を選ぶのかさえも決まっているのでしょうか。
それとも全ては自由意志で、混沌とした未来の無限の選択肢の中から、瞬間瞬間何かを選ぶことで人生を作り出しているのでしょうか。
僕はその両方のような気がするのです。
決まっているのに決まっていない。
その両方が同時に起きているように思うのです。
そのことの真実を追求することが「かんながら」の物語の大きなテーマでした。
これを読んでくれているあなただって、何かがほんの少し違って入れば、まったく違う道を歩いていたのではありませんか?
沖縄のラジオ局からのインタビューで、「もうライブはやらないのですか」と聞かれ、思わず「やりましょうか」と答えたのが2001年2月でした。
そう答えながら、もう一人の自分が「え!?マジで?」って驚いていました。
だってギターも弾けなくなっているし、声も出ないし、自分で作った歌の歌詞さえも忘れていたからです。
もしあの時、もう少し理性的な自分がいて、「歌ですか?それはすでに終わったことです」と答えていたとしたら、その後の人生は大きく変わっていました。
僕の人生だけでなく、家族全員の人生が変わっていました。
今沖縄に住んでいないことだけは確かです。
人生には自分でも説明つかないような選択をしてしまうことがあります。
しかも、その選択が人生全体に大きな影響を与えるのです。
人生に「もし・・・」はないと言いますが、それでも考えてしまいます。
もしあの時・・・
人生の筋書きは全部決まっているのでしょうか。
自分がその瞬間何を思い、何を考え、何を選ぶのかさえも決まっているのでしょうか。
それとも全ては自由意志で、混沌とした未来の無限の選択肢の中から、瞬間瞬間何かを選ぶことで人生を作り出しているのでしょうか。
僕はその両方のような気がするのです。
決まっているのに決まっていない。
その両方が同時に起きているように思うのです。
そのことの真実を追求することが「かんながら」の物語の大きなテーマでした。
これを読んでくれているあなただって、何かがほんの少し違って入れば、まったく違う道を歩いていたのではありませんか?
Posted by Blog Ranking at
15:04
2008年10月11日
君のおかげ
さてそのレンタカーなんですけど、乗っている間にどれくらい労わってあげているでしょうか。
一日24時間、一瞬も休むことなく働くだけ働いてくれています。
それも生まれた瞬間から、死ぬ間際まで、ずっと休みなくです。
それなのに僕たちときたら、「いつもありがとう、君のおかげだよ」なんて優しい言葉をかけることもなく、働いて当然というような態度で接しているような気がします。
それどころか、足が短いだの、腹が出てきただの、太り過ぎだの、痩せすぎだの、背が低いだの、なんだのと、体に文句ばかり言っているのではないでしょうか。
それでも健気な体は、不平不満を言うことなく、ただ黙々とその役目を果たしてくれています。
車もたまにはチューンアップしたりメンテしたりしますが、体にもしてあげたいですね。
実はそんなことを考えるようになったのは最近で、ここ数ヶ月間筋トレに励んでいます。
そしたらね、身体が喜んでいるのがわかるんですよ。
細胞の一つひとつが活性化しだしたような、そんな感覚があります。
で、時々腕や胸をさすってあげて、「今までよく頑張ってくれたね、大切にするからね」なんて声をかけるようになりました。
僕らが最初に感謝しなければいけないのは、地球からお借りしているこのレンタカー(身体)かもしれませんね。
一日24時間、一瞬も休むことなく働くだけ働いてくれています。
それも生まれた瞬間から、死ぬ間際まで、ずっと休みなくです。
それなのに僕たちときたら、「いつもありがとう、君のおかげだよ」なんて優しい言葉をかけることもなく、働いて当然というような態度で接しているような気がします。
それどころか、足が短いだの、腹が出てきただの、太り過ぎだの、痩せすぎだの、背が低いだの、なんだのと、体に文句ばかり言っているのではないでしょうか。
それでも健気な体は、不平不満を言うことなく、ただ黙々とその役目を果たしてくれています。
車もたまにはチューンアップしたりメンテしたりしますが、体にもしてあげたいですね。
実はそんなことを考えるようになったのは最近で、ここ数ヶ月間筋トレに励んでいます。
そしたらね、身体が喜んでいるのがわかるんですよ。
細胞の一つひとつが活性化しだしたような、そんな感覚があります。
で、時々腕や胸をさすってあげて、「今までよく頑張ってくれたね、大切にするからね」なんて声をかけるようになりました。
僕らが最初に感謝しなければいけないのは、地球からお借りしているこのレンタカー(身体)かもしれませんね。
Posted by Blog Ranking at
13:41
2008年10月10日
肉体はレンタカー
もう少しだけ、死について語ってみます。
死ぬ時には何が起きるのでしょうか。
結論を言えば、死んでも何も起きません。
なぜなら、死なないからです。
肉体はこの世で生きるためにお借りしたレンタカーみたいなものです。
どんな優秀な車も使っていれば古くなり、修理しながら何とか持ちこたえさせようとしますが、それもいつかは限界がきて、エンジンがストップしてしまいます。
それが死ですが、運転手はまったくの無傷です。
車から降りると何が起きるのでしょう。
それは狭い車内から、広々とした大地に足を踏み出すのと似ています。
あまりにも清々しい空気。
あまりにも圧倒的な解放感。
そして広々とした自由な感覚に包まれていきます。
今までに、生きながらにしてそのような体験を何度かさせてもらいました。
「なーんだ、死なないんだ」
そう思ったとき、人生感がガラリと変わりました。
この世で何かを成し遂げなければいけないといった強迫観念がなくなりました。
そもそもレンタカーに乗って何処かに向かっているつもりでいましたが、実際にはサーキットコースのような巡回道路をぐるぐる回っていただけで、どこにも行きついてなかったのです。
前を走る人に追い付き追い越せと走ってきましたが、どこまで行っても前に人がいます。
あれ、この人はずいぶん昔に追い越した人じゃないかって気がつく時もあります。
一周遅れで前を走っていたのです。
何度抜いても同じこと。
だって何周したかを競うレースではなく、まさにいま、どのような走り方をしているかが問われているレースなのですから。
だから、気楽にいきましょう。
死ぬ時には何が起きるのでしょうか。
結論を言えば、死んでも何も起きません。
なぜなら、死なないからです。
肉体はこの世で生きるためにお借りしたレンタカーみたいなものです。
どんな優秀な車も使っていれば古くなり、修理しながら何とか持ちこたえさせようとしますが、それもいつかは限界がきて、エンジンがストップしてしまいます。
それが死ですが、運転手はまったくの無傷です。
車から降りると何が起きるのでしょう。
それは狭い車内から、広々とした大地に足を踏み出すのと似ています。
あまりにも清々しい空気。
あまりにも圧倒的な解放感。
そして広々とした自由な感覚に包まれていきます。
今までに、生きながらにしてそのような体験を何度かさせてもらいました。
「なーんだ、死なないんだ」
そう思ったとき、人生感がガラリと変わりました。
この世で何かを成し遂げなければいけないといった強迫観念がなくなりました。
そもそもレンタカーに乗って何処かに向かっているつもりでいましたが、実際にはサーキットコースのような巡回道路をぐるぐる回っていただけで、どこにも行きついてなかったのです。
前を走る人に追い付き追い越せと走ってきましたが、どこまで行っても前に人がいます。
あれ、この人はずいぶん昔に追い越した人じゃないかって気がつく時もあります。
一周遅れで前を走っていたのです。
何度抜いても同じこと。
だって何周したかを競うレースではなく、まさにいま、どのような走り方をしているかが問われているレースなのですから。
だから、気楽にいきましょう。
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09:11
2008年10月07日
死という祝福に向かって
死が自分に迫ってきたらどうするだろう。
人は決して死から逃れることができない。
だとしたら、死のプロセスに任せてみよう。
戦わないで、死を友として迎え入れてみよう。
そんな心境を持ち続けたいと思っています。
死はあらゆる存在の宿命です。
それは物質(肉体)からの解放であり、大いなる祝福だと思います。
未知なものに対する恐怖心が、死をややこしくしています。
しかし、その旅立ちをワクワクする冒険ととらえて、その一切を目を凝らして見届けることができたとしたら、その時に人は死を超えることができます。
死は存在しないことを見抜くからです。
そこに行きついた意識は、もう二度と生まれてくることはないと言います。
苦しみである人生に再び投げ出されることはないのです。
もし人生に目的があるとしたら、そのような死に方ができるような自分になっていくことだと思います。
死にざまが生きざまです。
「随(かんながら)神」の物語は、つまるところ、「いかに死ぬか」という物語のように思います。
神の思し召すままに、死さえも委ねて生きていたい今日この頃です。
人は決して死から逃れることができない。
だとしたら、死のプロセスに任せてみよう。
戦わないで、死を友として迎え入れてみよう。
そんな心境を持ち続けたいと思っています。
死はあらゆる存在の宿命です。
それは物質(肉体)からの解放であり、大いなる祝福だと思います。
未知なものに対する恐怖心が、死をややこしくしています。
しかし、その旅立ちをワクワクする冒険ととらえて、その一切を目を凝らして見届けることができたとしたら、その時に人は死を超えることができます。
死は存在しないことを見抜くからです。
そこに行きついた意識は、もう二度と生まれてくることはないと言います。
苦しみである人生に再び投げ出されることはないのです。
もし人生に目的があるとしたら、そのような死に方ができるような自分になっていくことだと思います。
死にざまが生きざまです。
「随(かんながら)神」の物語は、つまるところ、「いかに死ぬか」という物語のように思います。
神の思し召すままに、死さえも委ねて生きていたい今日この頃です。
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10:06
2008年09月23日
大変革を前にして
そのような時代の変化に対応するために、いくつかの生活習慣を変えてみることをお勧めします。
ひとつは食生活です。
まずは肉を極力ひかえてみるのです。
それは健康のためだけでなく、精神的にも大きな影響が出てきます。
完ぺきにやろうとしても、今の時代はさまざま食材に肉のエキスが混入していますので難しいものがありますが、まずはそのような心がけを持つだけでもいいと思います
肉食を霊的な側面から否定する人もいます。
生き物が殺される時の怨念が、肉を食べることを通して体内に入ってくるという考え方です。
僕はそのようなこと以前に、肉を平気で食べているという行為自体が、あまりにも無神経だと思います。
そこには想像力が欠如しています。
自分が何を食べているのかの自覚がないのです。
人間の味覚を満足させるために、毎日おびただしい数の罪なき動物が殺されています。
目の前にあるのがきれいにパッキングされた肉だとしても、それがそのような形になるまでの経緯があります。
それをつぶさに想像すれば、食べたいと言う思いは薄れていくのではないでしょうか。
他の動物に対する慈しみの心は、自分の霊性の目覚めと別々ではありません。
とても象徴的だと思います。
さて、食生活の改善は何も肉食に限ったことではありません。
贅沢に慣れてしまった食生活を見直し、粗食に変えていくことが大切だと思います。
ひとつひとつを味わって感謝して頂くような、そんな態度で食べるのです。
それはこの先予想される世界的食糧難を、苦労なく乗り越えていける準備にもなります。
贅沢に慣れていると、失望感が大きくなることでしょう。
常日頃から粗食で満足できるような自分でいられたら、難なくこれからの時代を生きていけると思います。
ひとつは食生活です。
まずは肉を極力ひかえてみるのです。
それは健康のためだけでなく、精神的にも大きな影響が出てきます。
完ぺきにやろうとしても、今の時代はさまざま食材に肉のエキスが混入していますので難しいものがありますが、まずはそのような心がけを持つだけでもいいと思います
肉食を霊的な側面から否定する人もいます。
生き物が殺される時の怨念が、肉を食べることを通して体内に入ってくるという考え方です。
僕はそのようなこと以前に、肉を平気で食べているという行為自体が、あまりにも無神経だと思います。
そこには想像力が欠如しています。
自分が何を食べているのかの自覚がないのです。
人間の味覚を満足させるために、毎日おびただしい数の罪なき動物が殺されています。
目の前にあるのがきれいにパッキングされた肉だとしても、それがそのような形になるまでの経緯があります。
それをつぶさに想像すれば、食べたいと言う思いは薄れていくのではないでしょうか。
他の動物に対する慈しみの心は、自分の霊性の目覚めと別々ではありません。
とても象徴的だと思います。
さて、食生活の改善は何も肉食に限ったことではありません。
贅沢に慣れてしまった食生活を見直し、粗食に変えていくことが大切だと思います。
ひとつひとつを味わって感謝して頂くような、そんな態度で食べるのです。
それはこの先予想される世界的食糧難を、苦労なく乗り越えていける準備にもなります。
贅沢に慣れていると、失望感が大きくなることでしょう。
常日頃から粗食で満足できるような自分でいられたら、難なくこれからの時代を生きていけると思います。
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10:18
2008年09月22日
大変革 2
有史以来、いく度となく革命が引き起こされ、そのたびに社会システムが一新されてきました。
しかしそれは単に社会の仕組みが変わっただけで、基本的な変化ではありませんでした。
基本的な変化とは何でしょう。
それは支配者と被支配者によって構成される社会ではなく、みな横一列に並んだ中で、それぞれが個としての役割を担いながら、全体的にバランスがとれた世の中に変わることです。
簡単に言えば縦社会の崩壊です。
すでにその兆候はITの飛躍的発展と共に、一部現実化してきています。
支配者の特権であった情報の独占が、ネットというツールによって壊れ始めたのです。
たとえば世界的企業である「グーグル」などは、いち早くこれからの変化を予見し、自らの企業としての仕組みも、来るべき社会の先駆けとなるような斬新な構成で成り立っています。
そして情報の共有という観点ひとつとっても、彼らの功績ははかり知れません。
さて、そのような社会は言ってみれば真の民主主義と呼べるのかも知れませんが、そこには代償として個々の責任が強く求められます。
それも、信条や倫理観を強化すると言うのではなく、個々の精神的レベルが求められるのです。
個でありながら、同時に「全体」という感覚を持ち合わせた人間たちによって可能になる社会です。
それは一部の強力な政治指導者の力で作られるものではありません。
一人ひとりの霊性への目覚めがその基盤にあるべきです。
だからと言って、突出した精神的リーダーが必要なわけでもありません。
あくまでも個の気づきによって達成されていくものです。
だからこそ、気づきの質が大切になってきます。
このような変革に時代には、様々なインスピレーションに操られて、人の心を惑わす山師たちが後を絶たないからです。
しかしそれは単に社会の仕組みが変わっただけで、基本的な変化ではありませんでした。
基本的な変化とは何でしょう。
それは支配者と被支配者によって構成される社会ではなく、みな横一列に並んだ中で、それぞれが個としての役割を担いながら、全体的にバランスがとれた世の中に変わることです。
簡単に言えば縦社会の崩壊です。
すでにその兆候はITの飛躍的発展と共に、一部現実化してきています。
支配者の特権であった情報の独占が、ネットというツールによって壊れ始めたのです。
たとえば世界的企業である「グーグル」などは、いち早くこれからの変化を予見し、自らの企業としての仕組みも、来るべき社会の先駆けとなるような斬新な構成で成り立っています。
そして情報の共有という観点ひとつとっても、彼らの功績ははかり知れません。
さて、そのような社会は言ってみれば真の民主主義と呼べるのかも知れませんが、そこには代償として個々の責任が強く求められます。
それも、信条や倫理観を強化すると言うのではなく、個々の精神的レベルが求められるのです。
個でありながら、同時に「全体」という感覚を持ち合わせた人間たちによって可能になる社会です。
それは一部の強力な政治指導者の力で作られるものではありません。
一人ひとりの霊性への目覚めがその基盤にあるべきです。
だからと言って、突出した精神的リーダーが必要なわけでもありません。
あくまでも個の気づきによって達成されていくものです。
だからこそ、気づきの質が大切になってきます。
このような変革に時代には、様々なインスピレーションに操られて、人の心を惑わす山師たちが後を絶たないからです。
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13:43
2008年09月19日
大変革
最近、世の中の大変革がいよいよピークに差し掛かったと言っている人たちがいますが、僕は信憑性を感じます。
現実的に見ても今の世界がこのまま続くわけがないと思うからです。
僕たちは自分や世界の未来を考えるとき、自分の過去の経験や、世界が歩んできた歴史から押しはかろうとしますが、今迎えようとしている新しい時代は、そのような連続性では描けない、まったく違う世界です。
したがって、来るべき世界を、誰も具体的に話すことはできません。
でもそこには、いくつかのキーワードがあります。
ひとつは、私利私欲の考え方が通用しなくなりということ。
これは世界の経済システムもしかり、個人の幸せ追求もしかりです。
だから今のうちから自分の考え方や、生き方を、少しでも是正していくほうがいいと思います。
そのほうが、苦しみを最小限に抑えて、変化の波に乗ることができるからです。
幸せは勝ち得るものではなく、与えあうものだという感覚を持つことです。
変化というのは破壊ではありません。
でも既存の価値観から見れば、それは破壊に見えると思います。
変化自体は良いも悪いもなく、ひとつの現実ですが、今までの世界で我欲を貫いて利益を得てきた人から見たら、この変化は最悪の事態かもしれません。
しがみつけばつくほど苦しみは大きくなり、やがては心身に異常をきたすかもしれません。
いっぽう、愛や平和といった価値をなによりも大切に生きてきた人たちにとっては、この変化は、長年夢見たユートピアの誕生と言えるでしょう。
変化自体は中立です。
人ぞれぞれの立場や生き方によって、良くも見え、悪くも見えるのです。
現実的に見ても今の世界がこのまま続くわけがないと思うからです。
僕たちは自分や世界の未来を考えるとき、自分の過去の経験や、世界が歩んできた歴史から押しはかろうとしますが、今迎えようとしている新しい時代は、そのような連続性では描けない、まったく違う世界です。
したがって、来るべき世界を、誰も具体的に話すことはできません。
でもそこには、いくつかのキーワードがあります。
ひとつは、私利私欲の考え方が通用しなくなりということ。
これは世界の経済システムもしかり、個人の幸せ追求もしかりです。
だから今のうちから自分の考え方や、生き方を、少しでも是正していくほうがいいと思います。
そのほうが、苦しみを最小限に抑えて、変化の波に乗ることができるからです。
幸せは勝ち得るものではなく、与えあうものだという感覚を持つことです。
変化というのは破壊ではありません。
でも既存の価値観から見れば、それは破壊に見えると思います。
変化自体は良いも悪いもなく、ひとつの現実ですが、今までの世界で我欲を貫いて利益を得てきた人から見たら、この変化は最悪の事態かもしれません。
しがみつけばつくほど苦しみは大きくなり、やがては心身に異常をきたすかもしれません。
いっぽう、愛や平和といった価値をなによりも大切に生きてきた人たちにとっては、この変化は、長年夢見たユートピアの誕生と言えるでしょう。
変化自体は中立です。
人ぞれぞれの立場や生き方によって、良くも見え、悪くも見えるのです。
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08:21
2008年09月12日
大相撲騒動に思うこと
ちょっと気分を変えて、今日は最近世の中を騒がした、大相撲騒動について書いてみます。
相撲は神事です。
海だとか山だとか、そんな名前を付けた力士が、土俵上で裸で戦うことで、神々に力と感謝を捧げ、五穀豊穣を願います。
古事記や日本書紀にも、その原型が登場するくらい歴史は古いのです。
本来は大関が最高位です。
その大関の中でも突出した力を有する者を御神体として注連縄(しめなわ)をつけたのが横綱です。
土俵入りで見せる柏手(かしわで)も神事の作法ですし、勝った力士が懸賞金をもらう時も、神主の「祓いたまい、清めたまへ」の仕草をします。
したがって相撲はスポーツというよりは、日本古来からの伝統芸能に近い存在だと思っています。
だからこその「国技」なのです。
偏見から言うのではありませんが、外国人力士を入れた時点で、その本質が大きく変わり始めたと思います。
変わったなら変わったなりに、いつまでも国技とか言っていないで、開かれたスポーツの場として徹すればいいと思います。
国技としての大相撲文化を徹底するのか、それとも開かれたスポーツの場として発展を目指すのか、今はどっちつかずの状況のように感じます。
もし大相撲が単なるスポーツの場なのであれば、ドーピング問題には国際基準があります。
今回検査を担当した日本相撲協会アンチ・ドーピング委員会専門委員の大西祥平・慶応大学スポーツ医学研究センター教授によると、大麻によるドーピング違反が判明した場合、一般スポーツでは厳重注意と1年未満の出場停止が科せられるのだそうです。
筋肉増強剤などは永久追放なのに、大麻は意外に軽いと思うかもしれませんね。
大麻は一般の麻薬とは違い、酒やタバコに比べてさえも人体に与える害が少ないので、国際的にはこの程度のペナルティーなのです。
今回は大相撲の今後のあり方など、いろいろと考えさせられる騒動でした。
相撲は神事です。
海だとか山だとか、そんな名前を付けた力士が、土俵上で裸で戦うことで、神々に力と感謝を捧げ、五穀豊穣を願います。
古事記や日本書紀にも、その原型が登場するくらい歴史は古いのです。
本来は大関が最高位です。
その大関の中でも突出した力を有する者を御神体として注連縄(しめなわ)をつけたのが横綱です。
土俵入りで見せる柏手(かしわで)も神事の作法ですし、勝った力士が懸賞金をもらう時も、神主の「祓いたまい、清めたまへ」の仕草をします。
したがって相撲はスポーツというよりは、日本古来からの伝統芸能に近い存在だと思っています。
だからこその「国技」なのです。
偏見から言うのではありませんが、外国人力士を入れた時点で、その本質が大きく変わり始めたと思います。
変わったなら変わったなりに、いつまでも国技とか言っていないで、開かれたスポーツの場として徹すればいいと思います。
国技としての大相撲文化を徹底するのか、それとも開かれたスポーツの場として発展を目指すのか、今はどっちつかずの状況のように感じます。
もし大相撲が単なるスポーツの場なのであれば、ドーピング問題には国際基準があります。
今回検査を担当した日本相撲協会アンチ・ドーピング委員会専門委員の大西祥平・慶応大学スポーツ医学研究センター教授によると、大麻によるドーピング違反が判明した場合、一般スポーツでは厳重注意と1年未満の出場停止が科せられるのだそうです。
筋肉増強剤などは永久追放なのに、大麻は意外に軽いと思うかもしれませんね。
大麻は一般の麻薬とは違い、酒やタバコに比べてさえも人体に与える害が少ないので、国際的にはこの程度のペナルティーなのです。
今回は大相撲の今後のあり方など、いろいろと考えさせられる騒動でした。
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09:59
2008年09月03日
性について
かんながらの物語の中で、性に関する記述がでてきます。
最初に見つけた「鍵」が、まさに性をテーマにしたものだったからです。
「性」という言葉を聞いて、あなたはどのような連想や感情が湧きますか。
セックス
性行為
いやらしい
隠されたもの
人には話したくない
公にはしたくない
恥ずかしい
命の源
気持ちがいい
・・・・
このような心の会話はすべて、その人の観念です。
「性」は「性」であって、それ以上でも以下でもありません。
「性とは・・・」の「・・・」がその人の観念なのです。
多くの場合、性に関しては否定的な観念を持っているようです。
いわばタブーのようにね。
街角で政治演説をしている人はいても、性に関して演説している人を見たことないですよね。
でも、実際には「性」は政治以上に僕たちにとって身近な存在です。
誰もが性行為の結果生まれてきたからです。
性行為と聞いて、何か特別な感情や、いごこちの悪さのようなものが出てきたとしたら、それだけ観念が強いということです。
じつはこのテーマは、極めて重要です。
性に対する否定的な観念の背景には、宗教の影響があると思います。
と言ってもはるか昔の宗教文化の中には、性を大らかに受け入れていた痕跡が見受けられます。
たとえばかんながらの物語にも登場する、イタリアのポンペイの壁画です。
大聖堂に描かれたそれは、まさに愛の行為そのものであり、宗教として性行為を否定するどころか、神聖なものとして見ていた証でしょう。
すでに当時、選挙制度も確立しているのですが、その立候補者の中には今で言う売春婦もいて、ポスターの位置などから、かなり身分が高かったことが窺えます。
性ということに対する観念が、今とはまったく違っていたということです。
日本においても、男性と女性のシンボルをそのまま御神体にしている例は各地にあります。
また、古事記に出てくる有名な天岩戸神話も、かなりエロチックです。
アメノウズメの命(みこと)が、踊るシーンは原文にはこのように書かれています。
神懸かりして、胸乳(むなち)をかき出で、裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき
そのまま訳せば、「胸を露わにして、腰の衣の紐を陰部にまで押し下げた」ということです。
それを見た八百万の神達が大笑いしたので、天照大神が何事とばかりに天岩戸をそっと開けたという有名なシーンです。
これなども、神話の時代には性をおおらかに扱っていたことが見受けられます。
さて、性に対する厳格な態度で真っ先に思い当たるのが、僧院や修道院などの宗教的な生活です。
性行為は神に対する冒涜のように考えられ始めました。
その影響でしょうか、キリストは処女から生まれたことになっています。
もしキリスト教がポンペイの壁画に見られるような態度で性を受け入れていたら、処女懐胎といった概念は生まれなかったように思います。
仏教にも釈迦の誕生に関して、同じような非現実的な話が伝わっています。
現代の性に対する観念の背景には、キリスト教と仏教の影響が少なからずあると考えています。
さて、僕たちは性に対して否定的な観念を持っているどころか、自分の中にあるそのような傾向を憎んでさえいるように思います。
たとえば、どこかに聖者と呼ばれる人がいたとしましょう。
わかりやすく、有名な教祖さんでも思い描いてみてください。
もしその人が大の食通で、おいしい食物に目がなく、やや食べすぎでメタボ症候群だとしたら、あなたはその人に失望しますか。
おそらく、それはそれとして大目に見るのではないでしょうか。
太り気味の教祖さんは多いですよね(笑)
それじゃあ、その人が大の女好きで、何人もの愛人を囲って、ハーレムのような生活をしていることが明るみに出たらどうですか。
大目にみますか。
いやいや、僕たちは決してそのことを許さないでしょう。
聖者の仮面をかぶって信者を騙していたペテン師だと言うかもしれません。
囲われていた愛人たちが、みんな幸せで、みんなが愛の暮らしを楽しんでいたとしても、第三者の僕たちがそれを許しません。
食欲に対しては寛大な僕たちも、性欲に対しては厳格な態度をとります。
何故でしょう。
そこに性に対する否定的な観念があるからです。
覚者は、聖者は、性欲を克服しているという大きな幻想がまことしやかに信じられています。
魂の成長と性欲の有無は何の関係もありません。
悟ったらインポになるわけではないのです。
ただし、性への衝動をうまく使いこなすという覚醒状態はあります。
修行を積んでそのような境地に達した人たちは数多くいることでしょう。
それでも、そのような状態と、魂のレベルとは、直接的な因果関係があるわけではありません。
性は、生きるということにおいて基本的な事実です。
性への欲求も、生きている限り消え去るものではありません。
これはちょっとうがった見方かもしれませんが、僧院や修道院が性に対して厳格で、性の衝動を克服することを強く求めた背景には、権力の維持といった目的もあったように思います。
性は自然な力です。
それを人間の意志で克服しようとしても勝ち目はありません。
しかしそれが成されなければ神から愛されないと信じ込めば、人は懸命に不可能なことに挑戦し続けます。
もし達成できれば、その人は自立して教会から自由になれますが、達成できなければいつまでも神の言いなりです。
あれこれと自分の至らなさを自覚し、どこまでいっても湧き上がる性の衝動に罪悪感を持つのが落ちです。
人が人を支配するとき必要なことがあります。
それは相手に罪悪感を与えることです。
そうすればその人は自分を信じれなくなり、権威に従いはじめます。
罪悪感を抱えた人を支配するのはいとも簡単です。
反対に、罪悪感を持っていない人を意のままに操ることは極めて困難です。
性を禁止してきた背景には、そのような意図もあったと感じています。
人間はずっと搾取され続けてきました。
神や道徳や正義や倫理といった制約が、本来の生き生きとした人間の喜びを妨げてきたのです。
本当にやりたいことをやれば非難されるような世の中を作り出してきたのです。
性が解放されるだけで、どれくらいの幸福感が取り戻せるかわかりません。
そこには家族制度を含めた社会のシステムそのものを見直す勇気が必要だと思います。
性に対する誤った観念が及ぼす影響の中に、罪悪感があります。
自分が否定的に考えている行為を、頭の中で考えただけでも罪悪感が生まれます。
あるがままの自分を認めようと思っても、あるがままの自分の中に性的な衝動や欲望が見え隠れし、そのような傾向を否定していたら、あるがままの自分など認められるはずがありません。
実際には、人間が持っているさまざまな面は、解決したり、克服したりすべき問題ではありません。
たとえば5本指の中で、小指が短いからと言って、死ぬまでに小指を克服するなんてバカなことはしませんよね。
小指の短さは問題ではありません。
同じように、心の欲求も、克服しなければいけないものではありません。
それは人間の一部です。
ところが性に関しては、いつか乗り越えなければいけないテーマのような誤った観念が植え付けられています。
勝ち目のない葛藤を強いられ、やがては消耗し、最後は罪悪感に浸ることになります。
「こんな自分なんて」というわけです。
罪悪感を持たないことは、幸せに生きる上でも大切な要素です。
ダメだと思うことをしなければ罪悪感はありません。
同時に、そのことをダメだと思わなければ罪悪感はありません。
性に対する誤った観念を書きかえれば、ずいぶんと楽に生きられます。
自分の中の衝動と、必要以上に戦わないことです。
あるがままでOKとは、まさにいまあるがままの自分でOKだということです。
いま以外の自分にはなれないのだと、早く気づきましょう。
最初に見つけた「鍵」が、まさに性をテーマにしたものだったからです。
「性」という言葉を聞いて、あなたはどのような連想や感情が湧きますか。
セックス
性行為
いやらしい
隠されたもの
人には話したくない
公にはしたくない
恥ずかしい
命の源
気持ちがいい
・・・・
このような心の会話はすべて、その人の観念です。
「性」は「性」であって、それ以上でも以下でもありません。
「性とは・・・」の「・・・」がその人の観念なのです。
多くの場合、性に関しては否定的な観念を持っているようです。
いわばタブーのようにね。
街角で政治演説をしている人はいても、性に関して演説している人を見たことないですよね。
でも、実際には「性」は政治以上に僕たちにとって身近な存在です。
誰もが性行為の結果生まれてきたからです。
性行為と聞いて、何か特別な感情や、いごこちの悪さのようなものが出てきたとしたら、それだけ観念が強いということです。
じつはこのテーマは、極めて重要です。
性に対する否定的な観念の背景には、宗教の影響があると思います。
と言ってもはるか昔の宗教文化の中には、性を大らかに受け入れていた痕跡が見受けられます。
たとえばかんながらの物語にも登場する、イタリアのポンペイの壁画です。
大聖堂に描かれたそれは、まさに愛の行為そのものであり、宗教として性行為を否定するどころか、神聖なものとして見ていた証でしょう。
すでに当時、選挙制度も確立しているのですが、その立候補者の中には今で言う売春婦もいて、ポスターの位置などから、かなり身分が高かったことが窺えます。
性ということに対する観念が、今とはまったく違っていたということです。
日本においても、男性と女性のシンボルをそのまま御神体にしている例は各地にあります。
また、古事記に出てくる有名な天岩戸神話も、かなりエロチックです。
アメノウズメの命(みこと)が、踊るシーンは原文にはこのように書かれています。
神懸かりして、胸乳(むなち)をかき出で、裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき
そのまま訳せば、「胸を露わにして、腰の衣の紐を陰部にまで押し下げた」ということです。
それを見た八百万の神達が大笑いしたので、天照大神が何事とばかりに天岩戸をそっと開けたという有名なシーンです。
これなども、神話の時代には性をおおらかに扱っていたことが見受けられます。
さて、性に対する厳格な態度で真っ先に思い当たるのが、僧院や修道院などの宗教的な生活です。
性行為は神に対する冒涜のように考えられ始めました。
その影響でしょうか、キリストは処女から生まれたことになっています。
もしキリスト教がポンペイの壁画に見られるような態度で性を受け入れていたら、処女懐胎といった概念は生まれなかったように思います。
仏教にも釈迦の誕生に関して、同じような非現実的な話が伝わっています。
現代の性に対する観念の背景には、キリスト教と仏教の影響が少なからずあると考えています。
さて、僕たちは性に対して否定的な観念を持っているどころか、自分の中にあるそのような傾向を憎んでさえいるように思います。
たとえば、どこかに聖者と呼ばれる人がいたとしましょう。
わかりやすく、有名な教祖さんでも思い描いてみてください。
もしその人が大の食通で、おいしい食物に目がなく、やや食べすぎでメタボ症候群だとしたら、あなたはその人に失望しますか。
おそらく、それはそれとして大目に見るのではないでしょうか。
太り気味の教祖さんは多いですよね(笑)
それじゃあ、その人が大の女好きで、何人もの愛人を囲って、ハーレムのような生活をしていることが明るみに出たらどうですか。
大目にみますか。
いやいや、僕たちは決してそのことを許さないでしょう。
聖者の仮面をかぶって信者を騙していたペテン師だと言うかもしれません。
囲われていた愛人たちが、みんな幸せで、みんなが愛の暮らしを楽しんでいたとしても、第三者の僕たちがそれを許しません。
食欲に対しては寛大な僕たちも、性欲に対しては厳格な態度をとります。
何故でしょう。
そこに性に対する否定的な観念があるからです。
覚者は、聖者は、性欲を克服しているという大きな幻想がまことしやかに信じられています。
魂の成長と性欲の有無は何の関係もありません。
悟ったらインポになるわけではないのです。
ただし、性への衝動をうまく使いこなすという覚醒状態はあります。
修行を積んでそのような境地に達した人たちは数多くいることでしょう。
それでも、そのような状態と、魂のレベルとは、直接的な因果関係があるわけではありません。
性は、生きるということにおいて基本的な事実です。
性への欲求も、生きている限り消え去るものではありません。
これはちょっとうがった見方かもしれませんが、僧院や修道院が性に対して厳格で、性の衝動を克服することを強く求めた背景には、権力の維持といった目的もあったように思います。
性は自然な力です。
それを人間の意志で克服しようとしても勝ち目はありません。
しかしそれが成されなければ神から愛されないと信じ込めば、人は懸命に不可能なことに挑戦し続けます。
もし達成できれば、その人は自立して教会から自由になれますが、達成できなければいつまでも神の言いなりです。
あれこれと自分の至らなさを自覚し、どこまでいっても湧き上がる性の衝動に罪悪感を持つのが落ちです。
人が人を支配するとき必要なことがあります。
それは相手に罪悪感を与えることです。
そうすればその人は自分を信じれなくなり、権威に従いはじめます。
罪悪感を抱えた人を支配するのはいとも簡単です。
反対に、罪悪感を持っていない人を意のままに操ることは極めて困難です。
性を禁止してきた背景には、そのような意図もあったと感じています。
人間はずっと搾取され続けてきました。
神や道徳や正義や倫理といった制約が、本来の生き生きとした人間の喜びを妨げてきたのです。
本当にやりたいことをやれば非難されるような世の中を作り出してきたのです。
性が解放されるだけで、どれくらいの幸福感が取り戻せるかわかりません。
そこには家族制度を含めた社会のシステムそのものを見直す勇気が必要だと思います。
性に対する誤った観念が及ぼす影響の中に、罪悪感があります。
自分が否定的に考えている行為を、頭の中で考えただけでも罪悪感が生まれます。
あるがままの自分を認めようと思っても、あるがままの自分の中に性的な衝動や欲望が見え隠れし、そのような傾向を否定していたら、あるがままの自分など認められるはずがありません。
実際には、人間が持っているさまざまな面は、解決したり、克服したりすべき問題ではありません。
たとえば5本指の中で、小指が短いからと言って、死ぬまでに小指を克服するなんてバカなことはしませんよね。
小指の短さは問題ではありません。
同じように、心の欲求も、克服しなければいけないものではありません。
それは人間の一部です。
ところが性に関しては、いつか乗り越えなければいけないテーマのような誤った観念が植え付けられています。
勝ち目のない葛藤を強いられ、やがては消耗し、最後は罪悪感に浸ることになります。
「こんな自分なんて」というわけです。
罪悪感を持たないことは、幸せに生きる上でも大切な要素です。
ダメだと思うことをしなければ罪悪感はありません。
同時に、そのことをダメだと思わなければ罪悪感はありません。
性に対する誤った観念を書きかえれば、ずいぶんと楽に生きられます。
自分の中の衝動と、必要以上に戦わないことです。
あるがままでOKとは、まさにいまあるがままの自分でOKだということです。
いま以外の自分にはなれないのだと、早く気づきましょう。
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10:33
2008年06月09日
過去世について
今日は過去生について感じていることを書いてみます。
僕たちの命は永遠です。
それは仮説ではなく事実です。
実際に自分がその事実を体感するまでは100%信じることは難しいでしょうが、それでも言います。
僕たちの命は永遠です。
さて僕は、様々な機会に、前世の存在を否定したり肯定したりしてきました。
なぜその両方から話してきたかは、これまでもブログ等で繰り返し伝えてきたので、今日は省略します。
今日話したいのは、前世、過去世に強い興味を示す人の多くが、今の人生に退屈していたり、華やかさに欠けていたり、十分に満足しきっていないということです。
せめて過去世では、たとえ悲恋に終わっても燃えるような恋愛をしたとか、英雄だったり、波乱万丈だったり、ドラマチックな人生を送ったと思うことで、今生では得られなかったものを満たしたいわけです。
でもね、これだけは言えます。
今世の僕たちは、今までの人生で最も素晴らしい自分を生きているのです。
なぜならば、悠久の時を旅してきた経験と英知の全てが、今の自分に結集しているからです。
「いま」という時は、いままでのすべての目的だったのです。
僕たちはいま、そんな素晴らしい「いま」を生きているんです。
僕たちの命は永遠です。
それは仮説ではなく事実です。
実際に自分がその事実を体感するまでは100%信じることは難しいでしょうが、それでも言います。
僕たちの命は永遠です。
さて僕は、様々な機会に、前世の存在を否定したり肯定したりしてきました。
なぜその両方から話してきたかは、これまでもブログ等で繰り返し伝えてきたので、今日は省略します。
今日話したいのは、前世、過去世に強い興味を示す人の多くが、今の人生に退屈していたり、華やかさに欠けていたり、十分に満足しきっていないということです。
せめて過去世では、たとえ悲恋に終わっても燃えるような恋愛をしたとか、英雄だったり、波乱万丈だったり、ドラマチックな人生を送ったと思うことで、今生では得られなかったものを満たしたいわけです。
でもね、これだけは言えます。
今世の僕たちは、今までの人生で最も素晴らしい自分を生きているのです。
なぜならば、悠久の時を旅してきた経験と英知の全てが、今の自分に結集しているからです。
「いま」という時は、いままでのすべての目的だったのです。
僕たちはいま、そんな素晴らしい「いま」を生きているんです。
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09:02
2008年06月08日
ダメ押し
それじゃ、昨日の続き、さらなるダメ押しです。
自分がどれくらい普通の存在か、それを心底理解するのは、大きな開放感を生みます。
実際僕たちはみんな、ごく普通の当り前な存在です。
何一つ特別なものがないのです。
特別優れてもいないし、特別劣ってもいないのです。
文字どおり、ごくごくありふれた普通の存在なのです。
たとえば地上に65億のバクテリアが生息しているとします。
高精度の顕微鏡で覗くと、そのバクテリアの一つ一つが頭をもたげて、私のほうが隣のバクテリアよりルックスがいいとか、優秀だとか言っています。
中には霊能力を持ったというバクテリアもいて、どっちが優れているか競争しています。
でも人間から見ると、バクテリアはバクテリアであって、優劣はありません。
彼ら自身が自分をどう評価しようと、みんな同じ普通のバクテリアです。
人間も同じです。
はるかに巨大な視点から見れば、誰もかれも同じにしか見えないし、実際みんな同じなのです。
同じということは、当たり前の存在だということです。
ただし人間の場合、当たり前さは凡庸さではありません。
なぜなら、その当たり前の一人一人の中に、とてつもなく素晴らしい存在が潜んでいるからです。
全ての人が、とてつもなく素晴らしいがゆえに、全ての人は当たり前の存在なのです。
そんな当り前さにくつろげたら、自分をよく見せる必要も、優秀さを証明する必要も消えますね。
みんながそこにくつろげば、世の中ずいぶんと住みやすくなります。
自分がどれくらい普通の存在か、それを心底理解するのは、大きな開放感を生みます。
実際僕たちはみんな、ごく普通の当り前な存在です。
何一つ特別なものがないのです。
特別優れてもいないし、特別劣ってもいないのです。
文字どおり、ごくごくありふれた普通の存在なのです。
たとえば地上に65億のバクテリアが生息しているとします。
高精度の顕微鏡で覗くと、そのバクテリアの一つ一つが頭をもたげて、私のほうが隣のバクテリアよりルックスがいいとか、優秀だとか言っています。
中には霊能力を持ったというバクテリアもいて、どっちが優れているか競争しています。
でも人間から見ると、バクテリアはバクテリアであって、優劣はありません。
彼ら自身が自分をどう評価しようと、みんな同じ普通のバクテリアです。
人間も同じです。
はるかに巨大な視点から見れば、誰もかれも同じにしか見えないし、実際みんな同じなのです。
同じということは、当たり前の存在だということです。
ただし人間の場合、当たり前さは凡庸さではありません。
なぜなら、その当たり前の一人一人の中に、とてつもなく素晴らしい存在が潜んでいるからです。
全ての人が、とてつもなく素晴らしいがゆえに、全ての人は当たり前の存在なのです。
そんな当り前さにくつろげたら、自分をよく見せる必要も、優秀さを証明する必要も消えますね。
みんながそこにくつろげば、世の中ずいぶんと住みやすくなります。
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10:50
2008年06月07日
悟前と悟後
僕の好きな禅の言葉に、こんな言葉があります。
彼は悟る前、木を伐り、水を運んでいた。
彼は悟った後、木を伐り、水を運んでいる。
外側から見れば何も変わらないわけです。
悟ったからといって超能力を発揮するわけでもなく、特別な行為を始めるわけでもなく、彼は普通に生活しているわけです。
でも同じ行為をしていても、その内なる経験は全く違うものでしょう。
彼はさらにシンプルになっています。
悟りとは、思われているような特別な経験ではなく、ごく単純な当り前の経験です。
それを得たからと言って、超人になるわけではありません。
むしろ、自分の中から特別さが消えて、シンプルな普通の人間になるのです。
この世に特別な人なんていません。
だって全ては「ひとつ」なのですから、みんな同じなのです。
自分を特別な存在だと思っている人は、もっともありふれた人間です。
自分がありふれた人間だと理解した人が特別な存在なのです。
自分の当り前さを受け入れて、あたりまえさにくつろぐこと。
それが悟りです。
な~んだ、そうだったのか
彼は悟る前、木を伐り、水を運んでいた。
彼は悟った後、木を伐り、水を運んでいる。
外側から見れば何も変わらないわけです。
悟ったからといって超能力を発揮するわけでもなく、特別な行為を始めるわけでもなく、彼は普通に生活しているわけです。
でも同じ行為をしていても、その内なる経験は全く違うものでしょう。
彼はさらにシンプルになっています。
悟りとは、思われているような特別な経験ではなく、ごく単純な当り前の経験です。
それを得たからと言って、超人になるわけではありません。
むしろ、自分の中から特別さが消えて、シンプルな普通の人間になるのです。
この世に特別な人なんていません。
だって全ては「ひとつ」なのですから、みんな同じなのです。
自分を特別な存在だと思っている人は、もっともありふれた人間です。
自分がありふれた人間だと理解した人が特別な存在なのです。
自分の当り前さを受け入れて、あたりまえさにくつろぐこと。
それが悟りです。
な~んだ、そうだったのか
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11:06
2008年06月06日
釈迦を殺して前に進め
敬虔な○○教徒は、いつも神を思い描き、祈りを捧げ、共に人生を送っているので、深い祈りや瞑想の中で、○○神と遭遇するような体験をする人がいます。
自分の目の前に、光り輝く至上の存在が現れるのです。
そのような体験をした者は、もったいなさとありがたさに涙します。
そして周囲の信心深い者たちも、そんな体験者を祝福します。
でもね・・・・
禅の世界はまったく違う態度をとります。
禅師はこう言います。
「もしあなたが瞑想のさなかに、お釈迦さまと出会ったとしたら、それを殺して前に進みなさい」
殺す!?
常識的に考えたら、このような発言は決して許されません。
ところが禅師は大まじめです。
彼は何を言っているのでしょう。
それは昨日の記事とも関連があります。
たとえそれが釈迦だろうと、自分以外の存在を拠り所にしたり、そこに自分以上の権威を与えたりしてはならない。
深い瞑想の中で誰と出会おうと、リアリティーは自己のみであり、それ以外はすべて、心が織りなす幻影だから惑わされるなと言っているのです。
そこまで徹底して、あらゆる権威や幻想を排除して、自己の本質を実現しようとするのです。
僕たちは知らず知らずのうちに、釈迦やキリストやそのほかの偉大だとされる人物を、自分よりはるか上に置いています。
でもよく考えてみたら、それらは外からの情報によって自分の中で築きあげたものであって、リアルなものではありません。
この世にリアルなものはたった一つです。
それは自分がいまここに存在しているということだけです。
そこに徹底したとき、自分自身が一人の釈迦であり、一人のキリストだったことを知ります。
宇宙の真理の全ては、自分自身を知ることによってもたらされます。
自分の目の前に、光り輝く至上の存在が現れるのです。
そのような体験をした者は、もったいなさとありがたさに涙します。
そして周囲の信心深い者たちも、そんな体験者を祝福します。
でもね・・・・
禅の世界はまったく違う態度をとります。
禅師はこう言います。
「もしあなたが瞑想のさなかに、お釈迦さまと出会ったとしたら、それを殺して前に進みなさい」
殺す!?
常識的に考えたら、このような発言は決して許されません。
ところが禅師は大まじめです。
彼は何を言っているのでしょう。
それは昨日の記事とも関連があります。
たとえそれが釈迦だろうと、自分以外の存在を拠り所にしたり、そこに自分以上の権威を与えたりしてはならない。
深い瞑想の中で誰と出会おうと、リアリティーは自己のみであり、それ以外はすべて、心が織りなす幻影だから惑わされるなと言っているのです。
そこまで徹底して、あらゆる権威や幻想を排除して、自己の本質を実現しようとするのです。
僕たちは知らず知らずのうちに、釈迦やキリストやそのほかの偉大だとされる人物を、自分よりはるか上に置いています。
でもよく考えてみたら、それらは外からの情報によって自分の中で築きあげたものであって、リアルなものではありません。
この世にリアルなものはたった一つです。
それは自分がいまここに存在しているということだけです。
そこに徹底したとき、自分自身が一人の釈迦であり、一人のキリストだったことを知ります。
宇宙の真理の全ては、自分自身を知ることによってもたらされます。
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09:35
2008年06月05日
自らを拠り所にせよ
今日は釈迦の言葉を紹介します。
彼が最後に弟子達に語った言葉です。
釈迦はそこで、釈迦を崇拝するのではなく、汝自らを拠り所とするように言っています。
弟子たちよ、お前たちはおのおの、自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。
他を頼りとしてはならない。
わが身を見ては、その穢れを思って貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみも共に苦しみの因(もと)と思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならぬ。
そうすればすべての苦しみを断つことができる。
苦しみも楽しみも共に苦しみの因だというあたりが、突き抜けていますね。
自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。
この言葉も、全ての権威を自己に求めるという点で、他の宗教にはないものだと思います。
多くの宗教は
神(教祖)を灯火とし、神(教祖)を拠り所とせよ。
となります。
お前がどう生きたらいいかは、お前よりも教祖様のほうがよく知っている。
自分を信じるな、道を誤るな。
組織の言う通りにしなさい。
でも釈迦はこう言います。
自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。
他を頼りとしてはならない。
自分の生き方は自分が一番よく分かっているのです。
そして、自らが神であることを忘れるなということです。
彼が最後に弟子達に語った言葉です。
釈迦はそこで、釈迦を崇拝するのではなく、汝自らを拠り所とするように言っています。
弟子たちよ、お前たちはおのおの、自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。
他を頼りとしてはならない。
わが身を見ては、その穢れを思って貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみも共に苦しみの因(もと)と思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならぬ。
そうすればすべての苦しみを断つことができる。
苦しみも楽しみも共に苦しみの因だというあたりが、突き抜けていますね。
自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。
この言葉も、全ての権威を自己に求めるという点で、他の宗教にはないものだと思います。
多くの宗教は
神(教祖)を灯火とし、神(教祖)を拠り所とせよ。
となります。
お前がどう生きたらいいかは、お前よりも教祖様のほうがよく知っている。
自分を信じるな、道を誤るな。
組織の言う通りにしなさい。
でも釈迦はこう言います。
自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。
他を頼りとしてはならない。
自分の生き方は自分が一番よく分かっているのです。
そして、自らが神であることを忘れるなということです。
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09:32
