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Posted by TI-DA at

2022年08月23日

コロナ騒動とワクチン

2011年、原発事故で日本中が大騒ぎしていた時のこと。

一部の人は東京から田舎に引っ越し、中には海外に移住する人たちもいた。

人は忘れやすいけれど、あの頃まことしやかに言われていたことを思い出してほしい。

反原発論者を始めとして彼らは、東京の子供たちは10年後にバタバタ死んでいくと言い切っていたのだ。


何を根拠にそう言っていたのか。

僕は放射能を自ら浴びたいとは思わないが、もし原発事故で漏れた放射能が致命的ならば、子供の頃に戦争で被爆した高齢者たちは、よほど運のいい人なのか。

実際の話、どれだけの科学的データを基にして、東京の人たちを脅かし、福島県民を辱めたのか、いまだにその検証はされないままだ。


しかも当時そう言い切った人たちは、何の責任も取らない。

問い詰めれば、数十年後にバタバタ死ぬとか言い出すのだろう。

そりゃそうだ。

僕もそのバタバタ死ぬ一人だ。老衰で。


そのことを指摘したら、子孫たちにその影響が出ると言った人がいる。

それって、いまのあなたの不幸は何代前かの先祖の霊障だと言う人と何ら変わらないんじゃなかろうか。

まあいい、言いたいことはそこではいから。


言いたいのはいまのコロナ騒ぎだ。

大変だ、大変だ、と騒ぎまくってきたテレビのコメンテーターや、専門家と称する人たち。

大抵は一つの事象に対して人の数だけ考えがあるのに、そこに出てくる人たちが言うことは、中身は違えど同じ方向の話ばかりだ。

要は、大変だ!大変だ!って。


それに反することを言おうものなら、すっかり洗脳されてしまった国民から一斉にバッシングを受ける。

愚民とはよく言ったもので、本当にバカばっかりだと思う。


僕が指摘しているのは、メディアや専門家と称する人の話に恐れ入って、思考停止してしまう風潮についてだ。

彼らのことを正しいと信じる根拠は何なのか。

いつも正義の使者のような顔をしている玉川徹みたいな人たちは本当に正しいのか。

もしかしたら正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。

それが大人の態度ではないだろうか。


僕は原発事故の時の政府の態度については、おおよその理解ができた。

一部の人たちがまくしたてたように、危険を隠ぺいしてオリンピックを招致させるために政府が世界を欺こうとしているなんてことはないと思っていた。

時間が経てばバレるようなウソを国際的に宣言すれば、日本の信用は地に落ちてしまうからだ。


しかし今回のコロナ騒動と、過剰なまでのワクチン接種の奨励だけはよくわからない。

この裏に何かがあるのか。


断っておくがこの記事を見て、コロナは陰の権力者の陰謀だとか言っている人を元気づける気はないし、残念ながら僕の考えはそこにない。


また続きを書く気でいるが、これが正しいとは言わない。

言うまでもなく、これも一人の意見に過ぎないから。


今日はここまで。
  


Posted by Blog Ranking at 07:48

2022年08月21日

いろんな制度

簡単な話、人はみんな幸せになるために生まれてきたのだから、どんな社会の仕組みにしたらそれが実現できるのか、根本的に考え直してみてもいいのではないだろうか。

我々が当たり前として受け入れてきたことを、もう一度見つめ直す価値はある。


たとえば結婚という制度。

それが幸せだと言う人もいるだろうが、世の中を見まわすとそれだけではなさそうだ。

出会って数年のラブラブ期間はいいとしても、男と女が一つ屋根の下で暮らせば、時間経過と共に必ず問題が生じてくる。

たいていの場合は相手に自分の闇を映し出すことになる。

しかも最初に相手に期待した分だけ、失望は大きい。

「こんな人だとは思わなかった」

それを自己の成長に使うこともできるけれど、そんな気になれなければ、ましてや2人とも離れたいのならば、離れるのがお互いのためだということは明らかだ。


すでにその相手を必要とする期間は終わっているのに、ひとたび結婚してしまえば、世間体や、子供の事や、経済的理由などで、別れるのは難しい。

そうやって喜びを封印したまま、何年間も、ことによったら何十年間も耐え忍びながら生きなければならず、そのまま人生を終えていく人も少なくない。


実際には多くの人がこのような人生を送っているのではないだろうか。

自分の両親もそうだったと感じる人は多いだろう。

そしてそんな自分も同じ道を歩んでいる。


このような事態に陥る原因は、その人の人格的な問題というよりは、そもそも結婚という縛りが人を幸せにしないのではないだろうか。


でも誰もそのことを言わないし、まるで自分の家はサザエさん一家みたいに上手くいっていると思わせる人もいる。

そんな人ばかりが周囲にいれば、自分の家の内情など話せるわけがない。

自分の家もサザエさん一家の振りをするしかないのだ。


みんなで「もう、うんざりだ!」と大声をあげれば、社会で隠されてきた問題も見えるかもしれない。


どうだろう、思い当たる人は、ここはひとつ大声で叫んでみては。


「もう、うんざりだ!!」

少しはスッキリした?


我々は制度のために生きているのではない。

やはり一人一人の意識レベルが上がれば、制度などいらなくなるのかもしれない。


と、ここまで言っておいてなんだけど、結婚には結婚にしかない素晴らしさもある。

結局は制度自体と言うよりも、それを使う人間側の問題かもしれない。


愛があれば上手くいく。

なにごとも。




  


Posted by Blog Ranking at 07:30

2022年08月20日

統一教会問題に思う事

政治家を選挙で選んでいるうちは、誰が政治家になっても、どの党がやっても何も変わらないという話をもう少し。


いま話題になっている統一教会(旧はいらない)と政党の癒着のことだって、選挙制度そのものが問題の根幹にあるのに、そこは誰も触れない。

そもそも宗教団体が集票マシンになっていること自体が、すこぶる不健全な話だ。

しかし宗教団体は聖域みたいなもので、神聖にして侵すべからずなのか、それとも思考停止しているのか、政治家にとって集票に必要だからか、今回も一部の魔女狩りみたいになって終わっていくんだろうな。


政治家の一番の関心は「票」であって、さらには選挙戦にかかる「お金」であって、そこを満たしてくれるなら片眼を瞑ろうってのが、いま暴かれ始めた問題の本質だと思う。

統一教会みたいな、宗教としては問題外の外みたいなのを糾弾するけれど、僕に言わせればほとんどの宗教団体は集票マシンであり、公明党なんかは創価学会の政治部と言われても仕方がないわけで、政教分離だなんていう言葉が虚しく感じる。

ここは宗教とは何かということを考えるいいチャンスなのに、ほとんどの政党は宗教団体の支援を受けているから、宗教団体の是非には踏み込まない。

それもこれも選挙制度が作り出していると思う。


民主主義が国民にとって最高の形だと信じている人にとっては、選挙制度が変われば(無くなれば)、ずいぶん無駄のない、そして透明性を持った、真の意味での民主主義国家が誕生するだろう。

これからのテクノロジーの進化に伴って、いまみたいに我々の代表を選挙で選んで国政や外交を任せるという間接民主主義から、直接民主主義に移行することも不可能じゃない。

自我の権化を選ばなくていいだけマシだ。


でもそれも危ういのは、昨日も紹介した「この程度の国民に、この程度の政治」が如実に現れる可能性があること。

その時々の民意が決定権を持ったら、たくさんの間違いをしでかすに違いない。

それではどうしたらいいのかは、いまの我々の意識レベルでは何も語れない。

やはり一人一人の存在への理解が高まり、意識が恐れから愛にシフトしたときに自然に現れてくる秩序が、新しい社会構造になっていくのだと思う。


いままであらゆる革命が失敗したのも、制度に人間の意識が追い付いていなかったからだ。

共産主義だって本当は理想的な面もあるのに、ロマノフ王朝や清王朝の中世国家で虐げられていた人たちが革命を起こしていきなり導入したから、たんに権力者が変わっただけで、醜悪な政治体制しか生まなかった。


だから制度を変えるのではなく、人間の意識を変えることが先決だ。

本来はそれを促すのが宗教の役目だが、残念ながら宗教団体は存在しても真の宗教性は見失われてしまった。

団体になってヒエラルキーを持った時点で、宗教性が堕落するのは当然だ。

だって人心をコントロールするための「ウソ」が入り込むから。


真理は組織化できない。

真理は各自の中にあるのだから。

釈迦やキリストや、その他にもたくさん出現したブッダたちが、誰一人宗教を始めなかったのは、そのことを知っていたからだ。


宗教を始める人間は、パラノイヤか詐欺師だというのは言い過ぎだろうか。

「言い過ぎだ!!」

はい、反省します


日本の新興宗教にも役目があった時代はあった。

たとえば戦後の人間の心が拠り所を無くしたときに、彼らを勇気づけた役目を宗教団体は担っていた。

そのような意味で役に立ったのだ。

いま国内にある大手団体の多くは、そのころに肥大化した組織だ。

でももうその役目は終わった。


これからは宗教団体という形ではなく、純粋に真理を分かち合える、横社会の仲間が必要なのだと思う。

そうやって人の意識が向上していくことが、誰も幸せにしない欺瞞に満ちた社会を変える礎になっていくと信じている。
  


Posted by Blog Ranking at 09:41

2022年08月19日

お久しぶり。

ブログタイトルを「シャバダ・バダ」から「裏ブログ」に変えた。

もともと「シャバダ・バダ」というタイトルだったのは、娑婆(しゃば)の話をしようと思ったから。

その精神は保ったまま、今日は久しぶりに新しく記事を書いてみよう。



娑婆(しゃば)への考え方は沢山あって、僕の意見もその中の一つに過ぎない。


愛(真理)は一つしかないけれど、娑婆の意見は人の数だけある。

愛を語ったときは問答無用でも、娑婆の意見に対してはそうはいかない。

これを読めば、いろいろ言いたくなるはずだ。

そんなわけで、面倒だからこのブログにはコメント欄がないのだ。



さて久しぶりの記事に何を書こうか。

いきなり政治の話でもしてみる?


その昔、「この程度の国民なら、この程度の政治」と言った法務大臣がいた。

歴代の政治家発言の中で、マイベストの名言だ。


僕は常々、選挙で政治家を選んでいるうちはダメだと思ってきた。

たぶん将来は全く違う形で政治や行政が行われていくだろうけれど、まだ当分はいまの形が続くだろう。


なぜ選挙で選んでいるうちはダメなのかと言うと理由は沢山ある。

まずは政治家を、政治家になりたい人の中から選ばなくてはいけないということ。

立候補する人って、変な人ばかりだと思わない?

自分の力で何かを変えようとか、影響力持ちたいとか、自我の特性をそのまま発揮するような人ばかり。

言うことは美しいけれど、結局は権力闘争であり、勝手にやれよって感じ。

「日本国の将来のために」とか言っても、そんな言葉が百年以上も繰り返されてきて、いまも何も変わらない。

何故かと言えば、自我の構造が変わらないから。


他にも選挙がダメな理由は幾つもある。

そもそも晴れて選ばれた人の在任期間の一番の関心はなんだろう。

それは次の選挙にも勝つこと。

よく見てみれば僕が言っていることが分かるよ。

政治行動の選択基準が、つまるところそこに来てしまうのは仕方ない。

だってそれがなくなったら元も子もないのだから。

したがって彼らは票にならないことはやらない。



あとは政党政治というナンセンス。

与党も野党も、一見希望が持てそうな新しい党も、党であること自体が暴力的で、これも選挙制度の産物だ。

これしかないからみんな麻痺しているけど、「選挙戦」と言うように、戦いがその背後にあるのだから愛とは程遠い。

そう、選挙制度とは愛のない制度なのだ。


したがって人が愛に目覚めることが、抜本的な社会の変化に繋がる。

じれったいけれど、それしかない。


まだまだあるけど、今日はこの辺にしておこう。


いろいろ書いたけど、笑って許してちょうだい。


許してチョーダイ!


♪ピアノ売ってチョーダイ!!


大して面白くなくてスマン。
  


Posted by Blog Ranking at 06:31

2008年10月10日

肉体はレンタカー

もう少しだけ、死について語ってみます。


死ぬ時には何が起きるのでしょうか。


結論を言えば、死んでも何も起きません。

なぜなら、死なないからです。



肉体はこの世で生きるためにお借りしたレンタカーみたいなものです。


どんな優秀な車も使っていれば古くなり、修理しながら何とか持ちこたえさせようとしますが、それもいつかは限界がきて、エンジンがストップしてしまいます。

それが死ですが、運転手はまったくの無傷です。



車から降りると何が起きるのでしょう。


それは狭い車内から、広々とした大地に足を踏み出すのと似ています。



あまりにも清々しい空気。

あまりにも圧倒的な解放感。

そして広々とした自由な感覚に包まれていきます。


今までに、生きながらにしてそのような体験を何度かさせてもらいました。


「なーんだ、死なないんだ」


そう思ったとき、人生観がガラリと変わりました。



この世で何かを成し遂げなければいけないといった強迫観念がなくなりました。


そもそもレンタカーに乗って何処かに向かっているつもりでいましたが、実際にはサーキットコースのような巡回道路をぐるぐる回っていただけで、どこにも行きついてなかったのです。


前を走る人に追い付き追い越せと走ってきましたが、どこまで行っても前に人がいます。


あれ、この人はずいぶん昔に追い越した人じゃないかって気がつく時もあります。


一周遅れで前を走っていたのです。



何度抜いても同じこと。


だって何周したかを競うレースではなく、まさにいま、どのような走り方をしているかが問われているレースなのですから。





だから、気楽にいきましょう。



  


Posted by Blog Ranking at 09:11

2008年10月07日

死という祝福に向かって

死が自分に迫ってきたらどうするだろう。

人は決して死から逃れることができない。

だとしたら、死のプロセスに任せてみよう。

戦わないで、死を友として迎え入れてみよう。



そんな心境を持ち続けたいと思っています。


死はあらゆる存在の宿命です。

それは物質(肉体)からの解放であり、大いなる祝福だと思います。



未知なものに対する恐怖心が、死をややこしくしています。


しかし、その旅立ちをワクワクする冒険ととらえて、その一切を目を凝らして見届けることができたとしたら、その時に人は死を超えることができます。

死は存在しないことを見抜くからです。



そこに行きついた意識は、もう二度と生まれてくることはないと言います。

苦しみである人生に再び投げ出されることはないのです。



もし人生に目的があるとしたら、そのような死に方ができるような自分になっていくことだと思います。


死にざまが生きざまです。




「随(かんながら)神」の物語は、つまるところ、「いかに死ぬか」という物語のように思います。


神の思し召すままに、死さえも委ねて生きていたい今日この頃です。

  


Posted by Blog Ranking at 10:06

2008年09月12日

大相撲騒動に思うこと

ちょっと気分を変えて、今日は最近世の中を騒がした、大相撲騒動について書いてみます。



相撲は神事です。


海だとか山だとか、そんな名前を付けた力士が、土俵上で裸で戦うことで、神々に力と感謝を捧げ、五穀豊穣を願います。

古事記や日本書紀にも、その原型が登場するくらい歴史は古いのです。


本来は大関が最高位です。

その大関の中でも突出した力を有する者を御神体として注連縄(しめなわ)をつけたのが横綱です。

土俵入りで見せる柏手(かしわで)も神事の作法ですし、勝った力士が懸賞金をもらう時も、神主の「祓いたまい、清めたまへ」の仕草をします。



したがって相撲はスポーツというよりは、日本古来からの伝統芸能に近い存在だと思っています。

だからこその「国技」なのです。


偏見から言うのではありませんが、外国人力士を入れた時点で、その本質が大きく変わり始めたと思います。

変わったなら変わったなりに、いつまでも国技とか言っていないで、開かれたスポーツの場として徹すればいいと思います。




国技としての大相撲文化を徹底するのか、それとも開かれたスポーツの場として発展を目指すのか、今はどっちつかずの状況のように感じます。




もし大相撲が単なるスポーツの場なのであれば、ドーピング問題には国際基準があります。


今回検査を担当した日本相撲協会アンチ・ドーピング委員会専門委員の大西祥平・慶応大学スポーツ医学研究センター教授によると、大麻によるドーピング違反が判明した場合、一般スポーツでは厳重注意と1年未満の出場停止が科せられるのだそうです。

筋肉増強剤などは永久追放なのに、大麻は意外に軽いと思うかもしれませんね。


大麻は一般の麻薬とは違い、酒やタバコに比べてさえも人体に与える害が少ないので、国際的にはこの程度のペナルティーなのです。



今回は大相撲の今後のあり方など、いろいろと考えさせられる騒動でした。


  


Posted by Blog Ranking at 09:59

2008年09月03日

性について

かんながらの物語の中で、性に関する記述がでてきます。


最初に見つけた「鍵」が、まさに性をテーマにしたものだったからです。


「性」という言葉を聞いて、あなたはどのような連想や感情が湧きますか。




セックス


性行為


いやらしい


隠されたもの


人には話したくない


公にはしたくない


恥ずかしい


命の源


気持ちがいい


・・・・



このような心の会話はすべて、その人の観念です。


「性」は「性」であって、それ以上でも以下でもありません。


「性とは・・・」の「・・・」がその人の観念なのです。




多くの場合、性に関しては否定的な観念を持っているようです。


いわばタブーのようにね。



街角で政治演説をしている人はいても、性に関して演説している人を見たことないですよね。


でも、実際には「性」は政治以上に僕たちにとって身近な存在です。


誰もが性行為の結果生まれてきたからです。



性行為と聞いて、何か特別な感情や、いごこちの悪さのようなものが出てきたとしたら、それだけ観念が強いということです。


じつはこのテーマは、極めて重要です。



性に対する否定的な観念の背景には、宗教の影響があると思います。

と言ってもはるか昔の宗教文化の中には、性を大らかに受け入れていた痕跡が見受けられます。



たとえばかんながらの物語にも登場する、イタリアのポンペイの壁画です。


大聖堂に描かれたそれは、まさに愛の行為そのものであり、宗教として性行為を否定するどころか、神聖なものとして見ていた証でしょう。

すでに当時、選挙制度も確立しているのですが、その立候補者の中には今で言う売春婦もいて、ポスターの位置などから、かなり身分が高かったことが窺えます。

性ということに対する観念が、今とはまったく違っていたということです。




日本においても、男性と女性のシンボルをそのまま御神体にしている例は各地にあります。


また、古事記に出てくる有名な天岩戸神話も、かなりエロチックです。


アメノウズメの命(みこと)が、踊るシーンは原文にはこのように書かれています。


神懸かりして、胸乳(むなち)をかき出で、裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき


そのまま訳せば、「胸を露わにして、腰の衣の紐を陰部にまで押し下げた」ということです。


それを見た八百万の神達が大笑いしたので、天照大神が何事とばかりに天岩戸をそっと開けたという有名なシーンです。


これなども、神話の時代には性をおおらかに扱っていたことが見受けられます。




さて、性に対する厳格な態度で真っ先に思い当たるのが、僧院や修道院などの宗教的な生活です。


性行為は神に対する冒涜のように考えられ始めました。



その影響でしょうか、キリストは処女から生まれたことになっています。

もしキリスト教がポンペイの壁画に見られるような態度で性を受け入れていたら、処女懐胎といった概念は生まれなかったように思います。


仏教にも釈迦の誕生に関して、同じような非現実的な話が伝わっています。


現代の性に対する観念の背景には、キリスト教と仏教の影響が少なからずあると考えています。



さて、僕たちは性に対して否定的な観念を持っているどころか、自分の中にあるそのような傾向を憎んでさえいるように思います。


たとえば、どこかに聖者と呼ばれる人がいたとしましょう。

わかりやすく、有名な教祖さんでも思い描いてみてください。


もしその人が大の食通で、おいしい食物に目がなく、やや食べすぎでメタボ症候群だとしたら、あなたはその人に失望しますか。


おそらく、それはそれとして大目に見るのではないでしょうか。

太り気味の教祖さんは多いですよね(笑)



それじゃあ、その人が大の女好きで、何人もの愛人を囲って、ハーレムのような生活をしていることが明るみに出たらどうですか。

大目にみますか。


いやいや、僕たちは決してそのことを許さないでしょう。

聖者の仮面をかぶって信者を騙していたペテン師だと言うかもしれません。


囲われていた愛人たちが、みんな幸せで、みんなが愛の暮らしを楽しんでいたとしても、第三者の僕たちがそれを許しません。


食欲に対しては寛大な僕たちも、性欲に対しては厳格な態度をとります。


何故でしょう。


そこに性に対する否定的な観念があるからです。



覚者は、聖者は、性欲を克服しているという大きな幻想がまことしやかに信じられています。


魂の成長と性欲の有無は何の関係もありません。

悟ったらインポになるわけではないのです。


ただし、性への衝動をうまく使いこなすという覚醒状態はあります。

修行を積んでそのような境地に達した人たちは数多くいることでしょう。


それでも、そのような状態と、魂のレベルとは、直接的な因果関係があるわけではありません。


性は、生きるということにおいて基本的な事実です。

性への欲求も、生きている限り消え去るものではありません。


これはちょっとうがった見方かもしれませんが、僧院や修道院が性に対して厳格で、性の衝動を克服することを強く求めた背景には、権力の維持といった目的もあったように思います。



性は自然な力です。

それを人間の意志で克服しようとしても勝ち目はありません。


しかしそれが成されなければ神から愛されないと信じ込めば、人は懸命に不可能なことに挑戦し続けます。

もし達成できれば、その人は自立して教会から自由になれますが、達成できなければいつまでも神の言いなりです。

あれこれと自分の至らなさを自覚し、どこまでいっても湧き上がる性の衝動に罪悪感を持つのが落ちです。


人が人を支配するとき必要なことがあります。

それは相手に罪悪感を与えることです。

そうすればその人は自分を信じれなくなり、権威に従いはじめます。


罪悪感を抱えた人を支配するのはいとも簡単です。

反対に、罪悪感を持っていない人を意のままに操ることは極めて困難です。


性を禁止してきた背景には、そのような意図もあったと感じています。



人間はずっと搾取され続けてきました。


神や道徳や正義や倫理といった制約が、本来の生き生きとした人間の喜びを妨げてきたのです。

本当にやりたいことをやれば非難されるような世の中を作り出してきたのです。


性が解放されるだけで、どれくらいの幸福感が取り戻せるかわかりません。


そこには家族制度を含めた社会のシステムそのものを見直す勇気が必要だと思います。



性に対する誤った観念が及ぼす影響の中に、罪悪感があります。

自分が否定的に考えている行為を、頭の中で考えただけでも罪悪感が生まれます。


あるがままの自分を認めようと思っても、あるがままの自分の中に性的な衝動や欲望が見え隠れし、そのような傾向を否定していたら、あるがままの自分など認められるはずがありません。


実際には、人間が持っているさまざまな面は、解決したり、克服したりすべき問題ではありません。


たとえば5本指の中で、小指が短いからと言って、死ぬまでに小指を克服するなんてバカなことはしませんよね。

小指の短さは問題ではありません。



同じように、心の欲求も、克服しなければいけないものではありません。

それは人間の一部です。


ところが性に関しては、いつか乗り越えなければいけないテーマのような誤った観念が植え付けられています。

勝ち目のない葛藤を強いられ、やがては消耗し、最後は罪悪感に浸ることになります。

「こんな自分なんて」というわけです。


罪悪感を持たないことは、幸せに生きる上でも大切な要素です。


ダメだと思うことをしなければ罪悪感はありません。

同時に、そのことをダメだと思わなければ罪悪感はありません。


性に対する誤った観念を書きかえれば、ずいぶんと楽に生きられます。



自分の中の衝動と、必要以上に戦わないことです。


あるがままでOKとは、まさにいまあるがままの自分でOKだということです。

いま以外の自分にはなれないのだと、早く気づきましょう。


  


Posted by Blog Ranking at 10:33

2008年06月09日

過去世について

今日は過去生について感じていることを書いてみます。


僕たちの命は永遠です。

それは仮説ではなく事実です。


実際に自分がその事実を体感するまでは100%信じることは難しいでしょうが、それでも言います。

僕たちの命は永遠です。




さて僕は、様々な機会に、前世の存在を否定したり肯定したりしてきました。


なぜその両方から話してきたかは、これまでもブログ等で繰り返し伝えてきたので、今日は省略します。




今日話したいのは、前世、過去世に強い興味を示す人の多くが、今の人生に退屈していたり、華やかさに欠けていたり、十分に満足しきっていないということです。


せめて過去世では、たとえ悲恋に終わっても燃えるような恋愛をしたとか、英雄だったり、波乱万丈だったり、ドラマチックな人生を送ったと思うことで、今生では得られなかったものを満たしたいわけです。




でもね、これだけは言えます。



今世の僕たちは、今までの人生で最も素晴らしい自分を生きているのです。

なぜならば、悠久の時を旅してきた経験と英知の全てが、今の自分に結集しているからです。



「いま」という時は、いままでのすべての目的だったのです。



僕たちはいま、そんな素晴らしい「いま」を生きているんです。

  


Posted by Blog Ranking at 09:02

2008年06月08日

ダメ押し

それじゃ、昨日の続き、さらなるダメ押しです。



自分がどれくらい普通の存在か、それを心底理解するのは、大きな開放感を生みます。


実際僕たちはみんな、ごく普通の当り前な存在です。


何一つ特別なものがないのです。


特別優れてもいないし、特別劣ってもいないのです。

文字どおり、ごくごくありふれた普通の存在なのです。



たとえば地上に65億のバクテリアが生息しているとします。


高精度の顕微鏡で覗くと、そのバクテリアの一つ一つが頭をもたげて、私のほうが隣のバクテリアよりルックスがいいとか、優秀だとか言っています。

中には霊能力を持ったというバクテリアもいて、どっちが優れているか競争しています。


でも人間から見ると、バクテリアはバクテリアであって、優劣はありません。

彼ら自身が自分をどう評価しようと、みんな同じ普通のバクテリアです。



人間も同じです。


はるかに巨大な視点から見れば、誰もかれも同じにしか見えないし、実際みんな同じなのです。

同じということは、当たり前の存在だということです。



ただし人間の場合、当たり前さは凡庸さではありません。

なぜなら、その当たり前の一人一人の中に、とてつもなく素晴らしい存在が潜んでいるからです。

全ての人が、とてつもなく素晴らしいがゆえに、全ての人は当たり前の存在なのです。



そんな当り前さにくつろげたら、自分をよく見せる必要も、優秀さを証明する必要も消えますね。




みんながそこにくつろげば、世の中ずいぶんと住みやすくなります。

  


Posted by Blog Ranking at 10:50

2008年06月07日

悟前と悟後

僕の好きな禅の言葉に、こんな言葉があります。


彼は悟る前、木を伐り、水を運んでいた。

彼は悟った後、木を伐り、水を運んでいる。



外側から見れば何も変わらないわけです。

悟ったからといって超能力を発揮するわけでもなく、特別な行為を始めるわけでもなく、彼は普通に生活しているわけです。


でも同じ行為をしていても、その内なる経験は全く違うものでしょう。

彼はさらにシンプルになっています。



悟りとは、思われているような特別な経験ではなく、ごく単純な当り前の経験です。

それを得たからと言って、超人になるわけではありません。


むしろ、自分の中から特別さが消えて、シンプルな普通の人間になるのです。




この世に特別な人なんていません。


だって全ては「ひとつ」なのですから、みんな同じなのです。



自分を特別な存在だと思っている人は、もっともありふれた人間です。

自分がありふれた人間だと理解した人が特別な存在なのです。



自分の当り前さを受け入れて、あたりまえさにくつろぐこと。

それが悟りです。





な~んだ、そうだったのか



  


Posted by Blog Ranking at 11:06

2008年06月06日

釈迦を殺して前に進め

敬虔な○○教徒は、いつも神を思い描き、祈りを捧げ、共に人生を送っているので、深い祈りや瞑想の中で、○○神と遭遇するような体験をする人がいます。

自分の目の前に、光り輝く至上の存在が現れるのです。


そのような体験をした者は、もったいなさとありがたさに涙します。

そして周囲の信心深い者たちも、そんな体験者を祝福します。



でもね・・・・


禅の世界はまったく違う態度をとります。


禅師はこう言います。

「もしあなたが瞑想のさなかに、お釈迦さまと出会ったとしたら、それを殺して前に進みなさい」

殺す!?



常識的に考えたら、このような発言は決して許されません。




ところが禅師は大まじめです。

彼は何を言っているのでしょう。


それは昨日の記事とも関連があります。



たとえそれが釈迦だろうと、自分以外の存在を拠り所にしたり、そこに自分以上の権威を与えたりしてはならない。

深い瞑想の中で誰と出会おうと、リアリティーは自己のみであり、それ以外はすべて、心が織りなす幻影だから惑わされるなと言っているのです。




そこまで徹底して、あらゆる権威や幻想を排除して、自己の本質を実現しようとするのです。


僕たちは知らず知らずのうちに、釈迦やキリストやそのほかの偉大だとされる人物を、自分よりはるか上に置いています。

でもよく考えてみたら、それらは外からの情報によって自分の中で築きあげたものであって、リアルなものではありません。


この世にリアルなものはたった一つです。

それは自分がいまここに存在しているということだけです。


そこに徹底したとき、自分自身が一人の釈迦であり、一人のキリストだったことを知ります。



宇宙の真理の全ては、自分自身を知ることによってもたらされます。


  


Posted by Blog Ranking at 09:35

2008年06月05日

自らを拠り所にせよ

今日は釈迦の言葉を紹介します。

彼が最後に弟子達に語った言葉です。


釈迦はそこで、釈迦を崇拝するのではなく、汝自らを拠り所とするように言っています。



弟子たちよ、お前たちはおのおの、自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。

他を頼りとしてはならない。

わが身を見ては、その穢れを思って貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみも共に苦しみの因(もと)と思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならぬ。

そうすればすべての苦しみを断つことができる。



苦しみも楽しみも共に苦しみの因だというあたりが、突き抜けていますね。


自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。

この言葉も、全ての権威を自己に求めるという点で、他の宗教にはないものだと思います。




多くの宗教は

神(教祖)を灯火とし、神(教祖)を拠り所とせよ。

となります。


お前がどう生きたらいいかは、お前よりも教祖様のほうがよく知っている。

自分を信じるな、道を誤るな。

組織の言う通りにしなさい。





でも釈迦はこう言います。

自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。

他を頼りとしてはならない。



自分の生き方は自分が一番よく分かっているのです。

そして、自らが神であることを忘れるなということです。


  


Posted by Blog Ranking at 09:32

2008年06月04日

2つの真実

このブログで伝えたかった一つは、僕たちの人生は大きな仕組みの中ですでに決定されていて、何一つ偶然もなく、何一つ無駄もなく、ただ起きることが起きているということです。

にもかかわらず、僕たちには創造する能力が与えられていて、瞬間瞬間思考という道具を使って、現実を作り出しています。


いまこの瞬間の選択を変えれば、僕たちの人生も変わっていきます。



全ては最初から決まっている。

いや、自分自身が創り出している。


この矛盾する2つの真実が、何も矛盾することなく共存している・・・これこそが宇宙の神秘だと思います。



僕たちはこの地上に生まれ、個という幻想の中で四苦八苦して旅を続けていますが、たったひとつ、僕に言いきれることがあります。


それは自らの内なる体験から確信したことですが、どんな旅も早かれ遅かれ、その意識の頂上に辿り着くと言うことです。

僕たちのゲームに失敗はあり得ません。

神という目的地は、それくらい巨大なのです。



そのことを深く実感したとき、このことに気づくタイミングも、今までの全ての出来事のタイミングも、全部完ぺきだったと思いました。


だから何も恐れることなく、自分の心のままに、これからも旅を続けていこうと思います。




自分が創り出していると感じているだけで、それさえもすべて決まっているのかもしれません。


天にお任せです。





かんながら



  


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2008年05月31日

神とは概念ではなく体験すること

神は自分に似せて人間を作ったと言いますが、それは逆で、人間が自分に似せて神を作ったのではないでしょうか。



その最も象徴的な姿が、白い鬚を蓄えて、白いローブを身につけ、大きな杖をついた老人の姿です。

それは人間の想像の産物であって、さすがに現代人はそのような神が実在するとは思っていないでしょう。



それではどんな姿をしているのか。


心をこめて自分なりに神を想像できたとしたら、その姿は神のひとつの現れ方だと思います。


仏教徒は釈迦如来像のような神を描くでしょうし、キリスト教徒はイエスの姿が浮かぶでしょう。


その人の経験や知識によって、神の姿は自由に変わりると思います。



それら全ては神であり、それらすべては神ではありません。


神とはそのように特定できる概念ではないからです。




神とは、感じること、体験することです。


「今までも、今も、これからも、常に完璧だったし、これからも完璧でしかありえない」ということを、身体の底から理解し体感すること・・・それが神の体験です。


それは思考を超えた圧倒的な体験で、絶対的な安心感に包まれた、絶頂体験です。





僕たち人生の目的は、まさにその一点を知ることにあると思います。

  


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2008年05月29日

神の波動は智慧と慈悲

神の存在感ということであれば、強くそれを感じた経験は何度もあります。


天河神社の奥宮は、弥山(みせん)という山の山頂にあります。


修験道の祖としても有名な役の小角(えんのおずぬ)によって、この山頂で祀られた弁財天は、その後、人々がお参りしやすいように、いまの坪内地区に祀られます。


したがって弥山山頂の奥宮は、本物の神の社です。


僕も何度か登頂しお参りしましたが、そこに行くたびに感じる神の気配があります。



それは西洋の怒れる神とは正反対で、どこまでも優しく受容的な波動です。


何か自分にやましいところを抱えたまま神の前に立ち、その自分を懺悔したり、罰が与えられないように必死で祈る姿を見ますが、天河の神は、人間のすべてを見通し、理解し、許してくれている、そんな感じなのです。



「いいよ、大丈夫だよ」


そんな声が聞こえてくる気がするのです。


初めて弥山に上ったとき、その山頂の鳥居の前で、あまりにも優しく心地よい波動に抱かれて、「ありがたい、ありがたい」そんな気持ちに覆われたことを思い出します。



その優しさには、底知れぬ知性が存在しているように思いました。


智慧と慈悲



この二つは、神を表す最高のシンボルだと思います。


ちょうど仏教の釈迦三尊像で、釈迦如来を中尊として、左に智慧の文殊菩薩、右に慈悲の普賢菩薩を配置しているのと同じだと思います。


  


Posted by Blog Ranking at 12:04

2008年05月27日

不思議

神殿の前に額ずきながら、何度となく思いました


「神様ってなんだろう」


できたばかりの神殿に漂うヒノキの香り、あたり一面に充満する神秘的な空気感、うっそうとした森の中に発生するマイナスイオン、そのような環境の中で神聖な気持ちを持つことは容易いことでしたが、実際に目の前の御扉の中に「神様」がいるのかどうかは、確信が持てませんでした。


「そんなものがいるはずがないじゃないか」

理性はそう言います。



だとしたら、いるかいないかの確信が持てないのではなく、いないという確信が持てるはずです。


でも持てないのです。

もしかしたら本当にいるのかもしれないという気になるのです。




もし、神殿に祭られた神が単なる偶像で、ただ人間が勝手に崇めているだけの迷信だとしたら、人間はずいぶんと手間暇をかけて、そのような形式に惑わされてきたことになります。


「なんだかわからないけれど、何かとてつもなくありがたい存在がいる」


これが僕の正直な思いです。





天河神社では、幾度となく深夜の神殿に上がり込んで、正面に立って祈りを捧げました。

そのたびに、必ずと言っていいほど起きた現象があります。


それは神殿の中で「ガタン」という大きな音がするのです。


重い机を50cmくらい上から下に落としたくらいの大きな音です。



このことも、あまりに馬鹿げているので、わずかの人にしか話してきませんでしたが、よくよく考えてみると不思議な現象です。


だって誰もいるはずのない深夜の神殿の中から、毎回のように大きな音がするのですから。



僕はこのような超常現象的な話は、あまり好きではありません。


でも、天河神社では、幾度となく不思議な体験があったのです。


その時はあたりまえのように思っていましたが、やっぱり不思議です。




あったものはあったので、どうしようもないのです。


  


Posted by Blog Ranking at 09:34

2008年05月26日

天河と洞川

天河神社がある坪内地区の民宿が満員の場合、そこから車で10数分離れたところにある、洞川(どろがわ)温泉がお勧めです。


天然温泉で、快適に過ごせる旅館も多くあります。



洞川地区は同じ天川村だというのに、天河神社がある地区とは対照的なエネルギーを持っています。


天河が女性エネルギーだとしたら、洞川のそれは男性エネルギーそのものです。


それもそのはず、洞川は山伏達のメッカだからです。


1300年もの間、女人禁制のままの大峰山修験道。

その大峰山系の入口が洞川温泉郷なのです。




だから天河地区と洞川地区を往復すれば、そのあきらかな違いが誰にでもわかると思います。


特に洞川から天河に入った時は、そのしっとりとした優しい波動が強調されて感じます。



反対に天河から洞川に入ると、その力強さに圧倒されます。




僕が最初に洞川を訪れた時、その一角に古い八幡神社を見つけ、何気にその階段を上って行きました。

じつは昼間から酒を飲んでいて、ほろ酔い気分で神社に入っていったのですが、階段を登りきったところにある馬の銅像の前で、何者かに突き飛ばされるような感じで強く押され、数メートルもよろめいてしまいました。


もちろんそれは突風だったと思いますが、僕としては何者かに突き飛ばされたような感触があったので、すぐに天河にもどり、神主に話したところ、無礼があったかもしれないからお詫びに行こうと言われ、お神酒を持って再びもどり、そこでお祈りさせてもらいました。


その後は何事もありませんでしたが、なんとなく奇妙な体験でした。


まるで洞川が怖いところのように書いてしまいましたが、神聖な場所だということを忘れずにいたら、とてもダイナミックで興味深い地域です。


  


Posted by Blog Ranking at 09:54

2008年05月24日

天河の思いで

7月に天河弁財天社の秘仏が御開帳されるので、神社がある坪内地区の民宿は、その時期はどこもかしこも満員のようです。


僕が御奉公していた時は、宮司さんのはからいで、まつば屋さんという民宿に暮らさせてもらっていました。

おばちゃんが作ってくれた、あまごの甘露煮は絶品でしたが、もうずいぶんご高齢になるので、いまもなお営業されているかは知りません。


2階の角の6畳間が僕専用の部屋で、静かな天河の日々を4カ月も満喫できたのですから、ずいぶんと幸運だったと思います。



一緒に泊まっていたのは、神殿建設のために常住していた竹中工務店の監督さん。

とても優秀な建築士だと、おばちゃんが話していました。



聞いた話で覚えているのは、建築に使う木材の樹齢は、その建物の耐久年数と同じだとかで、天河の新しい神殿には、樹齢400年の吉野ヒノキが使われたために、神殿も400年間は壊れないとのことでした。

したがってその土台になるコンクリートも400年間の耐久性が必要で、その開発にはご苦労されたようです


400年間ももつコンクリートって凄いですよね。




あれから20年。

真新しかった神殿も、すこし黒ずんできたとのことですが、その立派な佇まいは、今もなお変わらないことでしょう。




再び訪れる日が楽しみです。



  


Posted by Blog Ranking at 11:31

2008年05月23日

いまここ

ヘルガさんが浜松医大に入院してからのこと。


彼女は毎朝早く起きて、病院の庭を散歩し、そこに咲いた小さな花を摘んでは、小児病棟の子供達にプレゼントしていました。



話は少し変わりますが、小児病棟には、生まれつきの病で満足に生きることさえ叶わない子供がいます。



僕の知り合いが、そんな子供をお見舞いに行ったときのことを話してくれました。

その子はしゃべることも身体を満足に動かすこともできない子だったそうです。


それがお見舞いに来てくれた彼を見ながら、必死に身体を動かして、寝返りを打とうとしたそうです。



あとで母親に聞いたところ、その子は見舞客のためにベッドのスペースをあけて、坐る場所を作ろうとしたのだそうです。


そのような状態に置かれても人への気遣いを忘れない、というよりも本能的にそのような優しさが発揮されるのも、人間の真の姿なのかと思いました。





さてヘルガさんの話に戻りますが、病床での彼女は見る影もなく痩せこけて、誰ん目にも死期が迫っているのが見て取れたそうです。


見舞いに行った向和尚は、どのような言葉で励ましたらいいのか迷ってしまったほどでした。




そんな向さんの様子を見て、ヘルガさんが言いました。


まさに、その言葉こそ、彼女が命がけの修行で得た境地だったのではないかと思います。




「向さん、いまここよ」

「私はいまここで生きているわよ」





長年の修行を積んできた向和尚は、その言葉を聞いて恥ずかしく思ったそうです。



  


Posted by Blog Ranking at 11:48