2007年07月31日
向さんの言葉を読んで
>「生死を超えた」からといっても、私は死ぬのはまだまだいやです。
>「いつ死んでもよろしい、人のためいつでも自分の命を身代わりに差しだしましょう」という境地には到っていません。
こういうところが僕が向さんを好きなところです。
何も飾らず、ぶることもなく、ただ自分でいてくれるからです。
向さんと会ったばかりの頃、僕のセミナーを受けに方広寺まで来てくれた人達のために、坐禅指導をしてもらったことがあります。
坐禅暦30年以上の禅師の坐り方は見事でした。
ところがその坐禅が終わった直後、向さんは立ち上がりながら足を引きずって、
「おお、シビれた・・・おお、シビれた」
って言いながら部屋を出て行かれました。
僕たちは目が点でした。
だって禅僧って坐禅だけが特技だと思っていたのに、足が痺れるなんて。
万一痺れても、一応の体面があるから、何食わぬ顔で退席するのが禅師だと思ったし・・・
でもその後で僕たちは、禅僧って凄いねって話になりました。
だって普通は格好つけるよねって。
素直な人間性。
どんな職業の人でも、これはとても大切なポイントですよね。
また向さんには、投稿の続きをお願いしています。
これからも応援よろしくお願いします
↓
>「いつ死んでもよろしい、人のためいつでも自分の命を身代わりに差しだしましょう」という境地には到っていません。
こういうところが僕が向さんを好きなところです。
何も飾らず、ぶることもなく、ただ自分でいてくれるからです。
向さんと会ったばかりの頃、僕のセミナーを受けに方広寺まで来てくれた人達のために、坐禅指導をしてもらったことがあります。
坐禅暦30年以上の禅師の坐り方は見事でした。
ところがその坐禅が終わった直後、向さんは立ち上がりながら足を引きずって、
「おお、シビれた・・・おお、シビれた」
って言いながら部屋を出て行かれました。
僕たちは目が点でした。
だって禅僧って坐禅だけが特技だと思っていたのに、足が痺れるなんて。
万一痺れても、一応の体面があるから、何食わぬ顔で退席するのが禅師だと思ったし・・・
でもその後で僕たちは、禅僧って凄いねって話になりました。
だって普通は格好つけるよねって。
素直な人間性。
どんな職業の人でも、これはとても大切なポイントですよね。
また向さんには、投稿の続きをお願いしています。
これからも応援よろしくお願いします
↓
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10:09
2007年07月30日
生死を超えた大いなる生命(向さんより)
昨夜遅く、向和尚から返信がありました。
実は向さんのような方は、自分の悟りをあまり口にすることはありません。
「知った者は言わず」
「言う者は知らず」
という基本姿勢を生きておられるからです。
でもある時僕は向さんにこのように言いました。
「知った人が言わずして、いったい誰がそれを言うのか」
その言葉を受けて下さったのかどうか知りませんが、このように正面からご自分の悟りを話してくださることに感謝します。
・・・・・・・・・・・・・・
生死を超えた大いなる命との邂逅
私の見性(悟りの)体験を、「生死を超えた大いなる命との邂逅」と表現しましたが、
私にとって究極の体験であり、大いなる命に回帰した、魂の故郷に帰ったという安らぎに満ちた体験であることは確かです。
「生死を超えた」というのは、少し筆がすべって出来合いの表現をしてしまったかなと思います。
生と死と二分する意識がなくなった、思いがなくなった「非思量」の世界ということです。
「生死を超えた」からといっても、私は死ぬのはまだまだいやです。
「いつ死んでもよろしい、人のためいつでも自分の命を身代わりに差しだしましょう」という境地には到っていません。
白隠禅師は 「大悟十八回、小悟数知れず」 と言ったそうですから、私が究極の体験と思っていても、より深い体験があるのかもしれません。
私が究極の体験というのは、あれ以上の体験を期待することも求めることもないということですが、なんら期待することなく坐禅をし修行を続けていけば、さらに深い境地が開けるかもしれません。
たとえて言うと、
私たちの個々の命は、大海の波の一粒の滴(しずく)のようなものだと思います。
見性体験というのは、波の滴:「個の自分」が大海に帰るようなものでしょう。
その時、波の滴は大海の広さと深さの全量を自分に感じて、限りない安らぎと力を感じることができるのです。
しかし、波の滴は大海のすべてではありません。
意識し言葉の世界にとどまることは、波の滴の「個の自分」にとどまることです。
波の滴が大海のすべてではないように、個の自分は大海のすべてを理解し語ることは出来ません。
個の自分にとって大海は、どこまでも不可思議なワンダーな世界なのです。
ですから、霊的世界を知り尽くしたように語ったり、断言的に前世を語ることは出来ないはずです。
霊的世界を究めるためには、大いなる命への畏敬の感情が基調になければなりません。
「なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」
西行法師が伊勢神宮にお参りした時に詠んだこの歌は、霊的世界を表現する素晴らしい歌だと思います。
あれ!もう深夜の1時です。明日も早いので今晩はこのへんで、皆さんお休みなさい。
・・・・・・・・・・・・・
向さん、ありがとうございました。
僕たちが大海に帰りつくその日まで、ご指導よろしくお願いします。
多くの人に届きますように
↓
実は向さんのような方は、自分の悟りをあまり口にすることはありません。
「知った者は言わず」
「言う者は知らず」
という基本姿勢を生きておられるからです。
でもある時僕は向さんにこのように言いました。
「知った人が言わずして、いったい誰がそれを言うのか」
その言葉を受けて下さったのかどうか知りませんが、このように正面からご自分の悟りを話してくださることに感謝します。
・・・・・・・・・・・・・・
生死を超えた大いなる命との邂逅
私の見性(悟りの)体験を、「生死を超えた大いなる命との邂逅」と表現しましたが、
私にとって究極の体験であり、大いなる命に回帰した、魂の故郷に帰ったという安らぎに満ちた体験であることは確かです。
「生死を超えた」というのは、少し筆がすべって出来合いの表現をしてしまったかなと思います。
生と死と二分する意識がなくなった、思いがなくなった「非思量」の世界ということです。
「生死を超えた」からといっても、私は死ぬのはまだまだいやです。
「いつ死んでもよろしい、人のためいつでも自分の命を身代わりに差しだしましょう」という境地には到っていません。
白隠禅師は 「大悟十八回、小悟数知れず」 と言ったそうですから、私が究極の体験と思っていても、より深い体験があるのかもしれません。
私が究極の体験というのは、あれ以上の体験を期待することも求めることもないということですが、なんら期待することなく坐禅をし修行を続けていけば、さらに深い境地が開けるかもしれません。
たとえて言うと、
私たちの個々の命は、大海の波の一粒の滴(しずく)のようなものだと思います。
見性体験というのは、波の滴:「個の自分」が大海に帰るようなものでしょう。
その時、波の滴は大海の広さと深さの全量を自分に感じて、限りない安らぎと力を感じることができるのです。
しかし、波の滴は大海のすべてではありません。
意識し言葉の世界にとどまることは、波の滴の「個の自分」にとどまることです。
波の滴が大海のすべてではないように、個の自分は大海のすべてを理解し語ることは出来ません。
個の自分にとって大海は、どこまでも不可思議なワンダーな世界なのです。
ですから、霊的世界を知り尽くしたように語ったり、断言的に前世を語ることは出来ないはずです。
霊的世界を究めるためには、大いなる命への畏敬の感情が基調になければなりません。
「なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」
西行法師が伊勢神宮にお参りした時に詠んだこの歌は、霊的世界を表現する素晴らしい歌だと思います。
あれ!もう深夜の1時です。明日も早いので今晩はこのへんで、皆さんお休みなさい。
・・・・・・・・・・・・・
向さん、ありがとうございました。
僕たちが大海に帰りつくその日まで、ご指導よろしくお願いします。
多くの人に届きますように
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10:01
2007年07月29日
本当の僧侶
このような形で向さんを紹介できることを幸せに思います。
僧侶というと葬式を司る職業のイメージがありますが、それは歴史の中で作られていったもので、本来僧侶の役割は葬式なんかじゃありません。
キリストが言うように「死んだ者のことは死んでいる者たちに任せておきなさい」という指摘が的を射ていると思います。
死んだ者というのは文字通り死者のことで、死んでいる者たちというのは、死んだように生きている人、すなわち真理を見ることなく欲望や世間体などの幻想の世界で生きている人達のことです。
僧侶の本来の役目は、全人生を投げ打って真理の獲得に励み、獲得した後は衆生たちの進むべき道を照らすガイドです。
現在でも、純粋にそこを生きようとしているお坊さんがいますが、その一人が向さんだと思います。
ところがそのような人とシャバで出会うのは至難の業ですよね。
出会ったとしても、その人が持つ宝を分かち合ってもらえる機会はほとんどありません。
それがこのようなネットの世界のおかげで、誰もが簡単にそのような機会を得る事ができています。
これはなんと素晴らしいことでしょう。
これからも向さんには、多くのメッセージを発信してもらいたいと思っています。
我々世間に暮らす衆生の変わりに、その世界を徹底して生きてきた向さんに教えてもらいたいことはたくさんあります。
まずは、昨日の「無位の真人」の文中に出てきた「生死を超えた大いなる命」という言葉を、さらに詳しく教えていただきたいとメールしておきました。
みなさんも質問などありましたら、このページからメールに書いて送ってください。
今後ともよろしくお願いします
↓
僧侶というと葬式を司る職業のイメージがありますが、それは歴史の中で作られていったもので、本来僧侶の役割は葬式なんかじゃありません。
キリストが言うように「死んだ者のことは死んでいる者たちに任せておきなさい」という指摘が的を射ていると思います。
死んだ者というのは文字通り死者のことで、死んでいる者たちというのは、死んだように生きている人、すなわち真理を見ることなく欲望や世間体などの幻想の世界で生きている人達のことです。
僧侶の本来の役目は、全人生を投げ打って真理の獲得に励み、獲得した後は衆生たちの進むべき道を照らすガイドです。
現在でも、純粋にそこを生きようとしているお坊さんがいますが、その一人が向さんだと思います。
ところがそのような人とシャバで出会うのは至難の業ですよね。
出会ったとしても、その人が持つ宝を分かち合ってもらえる機会はほとんどありません。
それがこのようなネットの世界のおかげで、誰もが簡単にそのような機会を得る事ができています。
これはなんと素晴らしいことでしょう。
これからも向さんには、多くのメッセージを発信してもらいたいと思っています。
我々世間に暮らす衆生の変わりに、その世界を徹底して生きてきた向さんに教えてもらいたいことはたくさんあります。
まずは、昨日の「無位の真人」の文中に出てきた「生死を超えた大いなる命」という言葉を、さらに詳しく教えていただきたいとメールしておきました。
みなさんも質問などありましたら、このページからメールに書いて送ってください。
今後ともよろしくお願いします
↓
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2007年07月28日
向和尚より
無位の真人
私が二十歳の時、初めて出会った禅の衝撃的な言葉、それがこの「無位の真人」でした。
臨済将軍と称された豪放な家風の中国の名僧・臨済禅師が
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(むい)の真人(しんにん)有り. 常に汝等諸人(なんじらしょにん)の面門より出入す. 未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」
「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!さあ見よ!」と、
弟子たちが早くお悟りを開くようにと、熱誠をもって叱咤激励する臨済禅師の獅子吼です。
私の父は、私が高校3年の2月11日、なんの前ぶれもなく心筋梗塞の発作で目の前で急に亡くなりました。
わずか30分ほどの間の二度目の発作で、断末魔の叫び声をあげて、あっけなく死にました。
今まで暖かい血が通い、笑いもし怒りもした肉体が、呼べど答えぬ躯(むくろ)となり、火葬されお骨と化す。
最初はただ呆然とするばかりで、私には父の死という現実を理解することも、受け入れることもできませんでした。
やがて「お父さんは、もう二度と帰ってこないんだ」と理解した時、止めどもなく涙がでてきました。
それからは、心の中を木枯らしが吹きすさぶような悲しみと淋しさが支配しました。
そして今まで、いかに大きな父の愛に支えられ自分が育てられてきたかを痛感しました。
「一流大学、一流会社に入って、すてきな嫁さんをもらって幸せに暮らす。」
そんな今まで知らない間に信じていた世間一般の価値観が、全く信じられなくなりました。
「お父さんは死んだ。人は死ぬんだ。地位、名誉、金、そんなものに何の価値もない。」
善悪さえも、信ずべき根拠を失いました。
外の世界にも、心の内にも、信じ頼りにすべき価値を失い、荒涼とした虚無感にさいなまれていた私は、友人の勧めで、ある新興宗教に朝早く起きて通ったりもしました。
そんな時に出会ったのが、「無位の真人」という臨済禅師の言葉です。
「無位は無依でもあって、なんの位も無い、なんら依存すべき価値もないところにこそ、真実の人が活き活きと生きておるのだ」という古田紹欽さんの解説によって知った臨済の言葉は、私にとって衝撃的なメッセージでした。
「地位、名誉、金等のランクもレッテルもない、善悪等の頼りとすべき価値もない、なんにもない無のただ中にこそ真の人が輝き出てくるというのか!禅というのは何とすごい、素晴らしい教えだろう…。」
それから大学の近くの禅寺に通って坐禅を始めました。
そして一年後、命がけで飛び込んだ大分の専門道場での一週間不眠不休で坐る臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)で、「無位の真人」を看ることが、「無位の真人」に成りきることができました。
隠寮前の楠の大木の下で、大の字になって真っ青に晴れた冬空を見上げていた私の頬を、歓喜の涙が止めどなく流れました。今までの一切の荷物を投げおろしたような安らぎに私の心は満たされていました。
今おもえば、父は、死という人生の真実を身をもってプレゼントしてくれたのです。そして、その「死」というプレゼントの中身は、生死を超えた大いなる命との邂逅でした。
それは、父からの最後のそして最高のプレゼントだったと思っています。
多くの人に届きますように
これからも応援よろしくお願いします
↓
私が二十歳の時、初めて出会った禅の衝撃的な言葉、それがこの「無位の真人」でした。
臨済将軍と称された豪放な家風の中国の名僧・臨済禅師が
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(むい)の真人(しんにん)有り. 常に汝等諸人(なんじらしょにん)の面門より出入す. 未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」
「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!さあ見よ!」と、
弟子たちが早くお悟りを開くようにと、熱誠をもって叱咤激励する臨済禅師の獅子吼です。
私の父は、私が高校3年の2月11日、なんの前ぶれもなく心筋梗塞の発作で目の前で急に亡くなりました。
わずか30分ほどの間の二度目の発作で、断末魔の叫び声をあげて、あっけなく死にました。
今まで暖かい血が通い、笑いもし怒りもした肉体が、呼べど答えぬ躯(むくろ)となり、火葬されお骨と化す。
最初はただ呆然とするばかりで、私には父の死という現実を理解することも、受け入れることもできませんでした。
やがて「お父さんは、もう二度と帰ってこないんだ」と理解した時、止めどもなく涙がでてきました。
それからは、心の中を木枯らしが吹きすさぶような悲しみと淋しさが支配しました。
そして今まで、いかに大きな父の愛に支えられ自分が育てられてきたかを痛感しました。
「一流大学、一流会社に入って、すてきな嫁さんをもらって幸せに暮らす。」
そんな今まで知らない間に信じていた世間一般の価値観が、全く信じられなくなりました。
「お父さんは死んだ。人は死ぬんだ。地位、名誉、金、そんなものに何の価値もない。」
善悪さえも、信ずべき根拠を失いました。
外の世界にも、心の内にも、信じ頼りにすべき価値を失い、荒涼とした虚無感にさいなまれていた私は、友人の勧めで、ある新興宗教に朝早く起きて通ったりもしました。
そんな時に出会ったのが、「無位の真人」という臨済禅師の言葉です。
「無位は無依でもあって、なんの位も無い、なんら依存すべき価値もないところにこそ、真実の人が活き活きと生きておるのだ」という古田紹欽さんの解説によって知った臨済の言葉は、私にとって衝撃的なメッセージでした。
「地位、名誉、金等のランクもレッテルもない、善悪等の頼りとすべき価値もない、なんにもない無のただ中にこそ真の人が輝き出てくるというのか!禅というのは何とすごい、素晴らしい教えだろう…。」
それから大学の近くの禅寺に通って坐禅を始めました。
そして一年後、命がけで飛び込んだ大分の専門道場での一週間不眠不休で坐る臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)で、「無位の真人」を看ることが、「無位の真人」に成りきることができました。
隠寮前の楠の大木の下で、大の字になって真っ青に晴れた冬空を見上げていた私の頬を、歓喜の涙が止めどなく流れました。今までの一切の荷物を投げおろしたような安らぎに私の心は満たされていました。
今おもえば、父は、死という人生の真実を身をもってプレゼントしてくれたのです。そして、その「死」というプレゼントの中身は、生死を超えた大いなる命との邂逅でした。
それは、父からの最後のそして最高のプレゼントだったと思っています。
多くの人に届きますように
これからも応援よろしくお願いします
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09:11
2007年07月27日
随神と向和尚
この物語を書いた頃は、まさかこのような形で皆さんに読んでもらうことになるとは夢にも思いませんでした。
最初は漫画の台本のために書き始めたのです。
ちょうど自分の気づきを文章にしたいと思っていたのですが、直接メッセージを書くと文章が硬くなってしまって人が興味を持ってくれそうにありません。
そこで物語風にすることで、実際に起きた出来事にフィクションを重ねて、どこまでが事実でどこからがフィクションかわからなくなれば面白いと考えました。
そこで有名人にも登場してもらうことにしました。
彼らとのエピソードや、彼らの発言はすべて事実のままです。
このブログを読んでくれている人から、時たま質問を受けます。
「どの部分がフィクションですか?」
でも大抵の場合は答えをはぐらかします。
手品の種明かしみたいなもので、全部話してしまったらつまらないですよね。
この物語は事実関係がどうのというより、その背景に流れるメッセージに意味があると思っています。
さてその中で、実名で登場するにもかかわらず、けっこう好き勝手に書かせてもらった人がいます。
それが向和尚です。
ここに登場する向さんからは、猛々しさを感じますが、実際にはそのような男性的面を持ちつつも、それ以上に慈愛とユーモアを持ったお方です。
さらにその人柄の奥に一貫して流れているのが、真理に対する誠実な態度です。
人生で最も大切なものは何か。
そこを徹底して生きようとする意志の強さを感じるのです。
これからも応援よろしくお願いします
↓
最初は漫画の台本のために書き始めたのです。
ちょうど自分の気づきを文章にしたいと思っていたのですが、直接メッセージを書くと文章が硬くなってしまって人が興味を持ってくれそうにありません。
そこで物語風にすることで、実際に起きた出来事にフィクションを重ねて、どこまでが事実でどこからがフィクションかわからなくなれば面白いと考えました。
そこで有名人にも登場してもらうことにしました。
彼らとのエピソードや、彼らの発言はすべて事実のままです。
このブログを読んでくれている人から、時たま質問を受けます。
「どの部分がフィクションですか?」
でも大抵の場合は答えをはぐらかします。
手品の種明かしみたいなもので、全部話してしまったらつまらないですよね。
この物語は事実関係がどうのというより、その背景に流れるメッセージに意味があると思っています。
さてその中で、実名で登場するにもかかわらず、けっこう好き勝手に書かせてもらった人がいます。
それが向和尚です。
ここに登場する向さんからは、猛々しさを感じますが、実際にはそのような男性的面を持ちつつも、それ以上に慈愛とユーモアを持ったお方です。
さらにその人柄の奥に一貫して流れているのが、真理に対する誠実な態度です。
人生で最も大切なものは何か。
そこを徹底して生きようとする意志の強さを感じるのです。
これからも応援よろしくお願いします
↓
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09:16
2007年07月26日
ハイテク和尚
向和尚は昭和22年の生まれですから、今年還暦を迎えられます。
その向さん、実は昔からハイテク機器を使いこなし、僕などもずいぶんパソコンの知識を教えてもらったものです。
この世に偶然はない、というのがこの「かんながら」のテーマのひとつですが、思えばそんな向さんの資質も、いまの僕の生活に大きな影響を与えていたことになります。
というのも前々から、二人で開催していた「禅スクール」のホームページを立ち上げようと促してくれたのは向さんだったからです。
HP自体がまだめずらしかった頃で、なかなか僕も着手できなかったんですが、それから何年も経った後の2000年12月に、「奥山ZENスクール」という名の最初のHPを立ち上げました。
二人して真冬の奥山の景色や、方広寺の写真を撮ったのもいい思い出です。
さて、それからわずか2ヵ月後、そのHPがあったおかげでFM沖縄のスタッフが僕の存在を見つけてくれます。
もし立ち上げがもう少し遅れていたら、僕はいまでも方広寺の研修所でセミナーをしていたことでしょう。
もちろん再びギターを持つことも無かったと思います。
本当に人生には何が起こるか分かりませんね。
PS
昨日向和尚に電話して、「無位の真人」についてのメッセージをお願いしました。
これからも応援よろしくお願いします
↓
その向さん、実は昔からハイテク機器を使いこなし、僕などもずいぶんパソコンの知識を教えてもらったものです。
この世に偶然はない、というのがこの「かんながら」のテーマのひとつですが、思えばそんな向さんの資質も、いまの僕の生活に大きな影響を与えていたことになります。
というのも前々から、二人で開催していた「禅スクール」のホームページを立ち上げようと促してくれたのは向さんだったからです。
HP自体がまだめずらしかった頃で、なかなか僕も着手できなかったんですが、それから何年も経った後の2000年12月に、「奥山ZENスクール」という名の最初のHPを立ち上げました。
二人して真冬の奥山の景色や、方広寺の写真を撮ったのもいい思い出です。
さて、それからわずか2ヵ月後、そのHPがあったおかげでFM沖縄のスタッフが僕の存在を見つけてくれます。
もし立ち上げがもう少し遅れていたら、僕はいまでも方広寺の研修所でセミナーをしていたことでしょう。
もちろん再びギターを持つことも無かったと思います。
本当に人生には何が起こるか分かりませんね。
PS
昨日向和尚に電話して、「無位の真人」についてのメッセージをお願いしました。
これからも応援よろしくお願いします
↓
Posted by Blog Ranking at
09:24
2007年07月25日
無位の真人
向和尚に訪れた人生の転機。
それは父親の急逝でした。
ついさっきまで元気だった父親が目の前で突然死したことで、「なんと人間の命の儚いことか」と思ったそうです。
それは若き多感な向青年の人生観を大きく揺さぶった出来事だったことでしょう。
その後出会うことになる臨済録の中の「無位の真人」という言葉。
すっかり形にはまってしまった人間に、本来の顔を思い出させる一言です。
僕たちの中に住んでいる、永遠に変わることの無い仏性と言ってもいいかもしれません。
「あなたは誰か」と聞かれたら、普通は名前を答えます。
でも名前はこの世で生きるための仮の名前であって、違う家に生まれていれば違う名前でした。
名前が自分ではありません。
同じく経歴や職業も自分そのものではありません。
さらには男であるとか女であるとか、年齢がいくつかとか、そんなものを全部取り去ってしまった後に残るものがあります。
それは常にいまここに存在している、純粋な命のエネルギー。
それこそが本当の自分であり、究極のリアリティーです。
その本来の自分を思い出すことだけが、あらゆる人の人生の目的なのです。
そうだ、無位の真人について向和尚から直接話を聞いてみたいですね。
今日にでも連絡をして、ここへの投稿をお願いしてみます。
これからも応援よろしくお願いします
↓
それは父親の急逝でした。
ついさっきまで元気だった父親が目の前で突然死したことで、「なんと人間の命の儚いことか」と思ったそうです。
それは若き多感な向青年の人生観を大きく揺さぶった出来事だったことでしょう。
その後出会うことになる臨済録の中の「無位の真人」という言葉。
すっかり形にはまってしまった人間に、本来の顔を思い出させる一言です。
僕たちの中に住んでいる、永遠に変わることの無い仏性と言ってもいいかもしれません。
「あなたは誰か」と聞かれたら、普通は名前を答えます。
でも名前はこの世で生きるための仮の名前であって、違う家に生まれていれば違う名前でした。
名前が自分ではありません。
同じく経歴や職業も自分そのものではありません。
さらには男であるとか女であるとか、年齢がいくつかとか、そんなものを全部取り去ってしまった後に残るものがあります。
それは常にいまここに存在している、純粋な命のエネルギー。
それこそが本当の自分であり、究極のリアリティーです。
その本来の自分を思い出すことだけが、あらゆる人の人生の目的なのです。
そうだ、無位の真人について向和尚から直接話を聞いてみたいですね。
今日にでも連絡をして、ここへの投稿をお願いしてみます。
これからも応援よろしくお願いします
↓
Posted by Blog Ranking at
09:10
2007年07月24日
ひとりの禅僧
まずは向さんのプロフィールを紹介します。
向和尚のHPからの抜粋です。
向令孝(むかいれいこう)
臨済宗方広寺派祥光寺住職。
臨済宗方広寺派教学部長。
昭和22年大阪に生まれる。
46年関西学院大学社会学部卒業後、㈱ダイエーに入社。
禅との出会いは、18歳の時、父親が心筋梗塞で目の前で急逝して人生の無常を痛感していたころ、たまたま読んだ臨済録の言葉、「無位の真人」に感銘を受けたことに始まる。
20歳の学生の頃から専門道場の大接心に参加し参禅修行を続けている。
51年ダイエーを退職し、現臨済宗の最長老である、方広寺派管長大井際断老師(大正4年生まれ)について出家得度し弟子となる。
6年間の雲水修行のあと、58年兵庫県の相国寺派法雲寺住職をへて、平成3年浜松市内の方広寺派祥光寺住職となる。
浜松「信行社」、沖縄、ドイツと、法縁に随い禅の指導、法話等積極的に活動している。
・・・・・・・
興味深いのは、普通の家庭に育った向さんが、父親の急逝を目の当たりにして人生の無常を感じ取る事です。
僧侶になった理由が、純粋に悟りを求めてのことだった点が重要だと思います。
もともと禅の才能もあったのではないでしょうか。
なぜなら、実に最初の大接心で見性(悟り)の体験をしてしまうからです。
これからも応援よろしくお願いします
↓
向和尚のHPからの抜粋です。
向令孝(むかいれいこう)
臨済宗方広寺派祥光寺住職。
臨済宗方広寺派教学部長。
昭和22年大阪に生まれる。
46年関西学院大学社会学部卒業後、㈱ダイエーに入社。
禅との出会いは、18歳の時、父親が心筋梗塞で目の前で急逝して人生の無常を痛感していたころ、たまたま読んだ臨済録の言葉、「無位の真人」に感銘を受けたことに始まる。
20歳の学生の頃から専門道場の大接心に参加し参禅修行を続けている。
51年ダイエーを退職し、現臨済宗の最長老である、方広寺派管長大井際断老師(大正4年生まれ)について出家得度し弟子となる。
6年間の雲水修行のあと、58年兵庫県の相国寺派法雲寺住職をへて、平成3年浜松市内の方広寺派祥光寺住職となる。
浜松「信行社」、沖縄、ドイツと、法縁に随い禅の指導、法話等積極的に活動している。
・・・・・・・
興味深いのは、普通の家庭に育った向さんが、父親の急逝を目の当たりにして人生の無常を感じ取る事です。
僧侶になった理由が、純粋に悟りを求めてのことだった点が重要だと思います。
もともと禅の才能もあったのではないでしょうか。
なぜなら、実に最初の大接心で見性(悟り)の体験をしてしまうからです。
これからも応援よろしくお願いします
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09:14
2007年07月21日
これからのこと
さてこれからこのブログをどうしようかと考えて、かんながらの物語を読み直してみました。
そこで気がついたこと。
物語の中の登場人物の人となりが、いまひとつ表現し切れていないなって。
伝えたいメッセージに一生懸命になりすぎているのと、僕自身の文章力のなさが原因だと思います。
そこで、このさき何を書いていったらいいのかがわかりました。
たくさんの登場人物の中には素晴らしい人がたくさんいるのですが、その中でも僕が特に感銘を受け、出会えたことに感謝しているのが向和尚です。
「禅は世界の宝だ」
「日本においてのみ、その宝が継承されている」
これはインドのダルマージの言葉です。
「悟り」という灯火が師から弟子に何百年にもわたって継承されてきているのは、世界広しとは言え、きわめてまれな現象です。
知識の継承ではなく、「究極意識」の継承がされているのです。
職業としての僧侶が多い中で、純粋にその灯火を受け継いだひとりが、まぎれもなく向和尚です。
彼のことをより詳しく書いていくのは意義深いことだと思いました。
これからもご期待ください
↓
そこで気がついたこと。
物語の中の登場人物の人となりが、いまひとつ表現し切れていないなって。
伝えたいメッセージに一生懸命になりすぎているのと、僕自身の文章力のなさが原因だと思います。
そこで、このさき何を書いていったらいいのかがわかりました。
たくさんの登場人物の中には素晴らしい人がたくさんいるのですが、その中でも僕が特に感銘を受け、出会えたことに感謝しているのが向和尚です。
「禅は世界の宝だ」
「日本においてのみ、その宝が継承されている」
これはインドのダルマージの言葉です。
「悟り」という灯火が師から弟子に何百年にもわたって継承されてきているのは、世界広しとは言え、きわめてまれな現象です。
知識の継承ではなく、「究極意識」の継承がされているのです。
職業としての僧侶が多い中で、純粋にその灯火を受け継いだひとりが、まぎれもなく向和尚です。
彼のことをより詳しく書いていくのは意義深いことだと思いました。
これからもご期待ください
↓
Posted by Blog Ranking at
10:04
2007年07月16日
120万分の1の確率
この世には偶然は無い。
この言葉を最近よく耳にするようになりました。
僕らの運命はあらかじめ決まっているのでしょうか。
それとも自分の選択によって、どのようにでも創り出していけるのでしょうか。
僕達がものを考える時は論理的に考えようとするので、YesかNoか、右か左か、あるのかないのかといった具合になります。
ところが真理はその両方を含んでいて、だから言葉で表せないのです。
仏陀にこんな質問が頻繁に寄せられたといいます。
「神はいますか?」
すると仏陀は
「いる」
と答えたり
「いない」
と答えたり
「どちらとも言えない」
と答えたり
その答えはまちまちだったそうです。
質問者によって答えを変えていたようなのです。
それは質問者の偏った信念を中道にもどすことが目的だったからでしょう。
さて、僕らの運命があらかじめ決まっているかどうかの話ですが、ここに一つの証拠を示唆するような現実があります。
それはAが押し出されるようにしてインドに向かったときのこと。
物語でのこの部分の経緯は、すべて事実をもとに書いています。
本当に不思議な力に後押しされるような状態で、否応なくインド行きの飛行機に乗ることになったのです。
そして物語には登場しませんでしたが、その同じ飛行機に、同じように否応なく押し出されるようにして乗ることになった一人の女性がいました。
その人の名前はT子さん。
順風満帆な半生を送ってきた彼女。
仕事にも家族にも恵まれて、多くのひとから羨まれる生活をしていた彼女の心に、ある時期を境に、人生について真剣に考えてみたいという欲求が生まれました。
人はなんのために生まれ、何故死んでいくのか。
社会的にいくら成功しても、それが生きる意味を満たしてくれるわけではない。
そんなあるとき、オーストラリアに住む昔からの友人の女性が彼女の家に遊びに来ました。
その女性はラジニーシ(物語の中ではダルマージ・現在は和尚という名で知られている)の弟子になっていて、T子さんの話を聞いた彼女はラジニーシの講話集を読むように勧めました。
そんなことが縁で読み始めたラジニーシの本。
その美しい言葉達と、初めて触れる真理の世界に、T子さんはすっかり魅了されていきました。
T子さんはプロのシンガーでしたが、そんな彼女の音楽スタッフが喜納昌吉さんのスタッフも兼ねていて、こんど昌吉がインドに演奏旅行に行くことになりラジニーシのアシュラムにも立ち寄るから同行してはどうかという話を持ってきました。
最近のT子さんが時折思いつめたような表情を浮かべるようになったのを見て、彼女を心配してのことでした。
でも彼女は気が進みませんでした。
たしかにラジニーシの話には感銘を受けていたのですが、だからといって本人の元に行くまでのことではないと感じていたからです。
それに出発の日程はすぐ目の前に迫っていました。
パスポートもビザもなく、すぐにインドに行くことは物理的にも不可能なことでした。
そうしようと思っても、なかなか思うように事が運ばないことがあります。
かと思うと、自分の意思とは関係なく、一定の方向にぐいぐいと引き寄せられてしまうこともあります。
まさにこの時のT子さんがそれでした。
それほど気のりがしなかったインド行き。
それを周囲が執拗に勧めるのです。
それもこれも、周囲がT子さんの気持ちが晴れることを願ってのことでした。
しかし出発日は1週間後にせまっていました。
パスポートを申請するだけでも、もっと多くの時間がかかってしまいます。
しかもその後でインド行きのビザを申請するのですから、間に合うわけがありません。
普通なら間に合うわけがないのです。
少しホッとした気持ちのT子さんでした。
ところが奇跡が起きたのです。
たまたま知り合いのJALの搭乗員が遊びに来て、事情を知ると、強く頼んだわけでもないのにあれよあれよという間に、すべてをクリアしてしまいました。
もう断るわけにもいきません。
数日後、一緒に行くはずだったNHKの女性ディレクターは急遽行けなくなってしまいました。
文字通り、たった一人のインド旅行になってしまったのです。
当日不安な気持ちでインド行きカウンターに行くと、向うからヒッピーのような出で立ちの男がやってきました。
Aでした。
「あれがA君だよ」
空港まで同行してくれた音楽スタッフは彼女の耳元でそうささやきました。
Aのことはこのスタッフから何度となく話を聞いていました。
『僕達はひとつの同じものだ』とか『時間なんてなくていつも今ここだ』とか、へんな事を突然言い出したということ。
人と一緒にいても、いつもどこか遠くを見ているような男だということ。
そして最近、山奥の神社に住み込んでしまったということ。
近づいてくるAを見てT子さんは思いました。
「やっぱり噂どおり、ちょっと変わった感じの人だ」
僕は僕で出発直前になって、この仕事を依頼してきたスタッフからこう告げられました。
「実はね、T子さんが急に昌吉のツアーに参加することになったんだが、プーナまでの道のりをよろしく頼むよ」
物語の本編にも書いたように、僕自身も考えられないようなことが連続して起こり、押し出されるようにして行くことになったインド旅行でした。
頭の中はこれから起こるであろう不思議な冒険への期待で占められていたので、誰かを同行させることくらいお安い御用でした。
「いいですよ」
簡単に答えはしましたが、この同行が人生に劇的な変化をもたらすことになるとは、その時は夢にも思いませんでした。
出発カウンターにやってくると、むこうにスタッフとT子さんが見えました。
T子さんとは過去にちょっとした縁がありました。
僕がテレビ主題歌を制作する音楽プロデューサーに抜擢された時、自分に与えられた机の上に、誰が置いたか一本のデモテープがありました。
それには『T子アルバム候補曲』と書かれていました。
それはアマチュア作曲家が作ったものでしたが、T子さん本人が歌うのを辞退したということでお蔵入りになったものでした。
聞いてみると美しい旋律です。
僕は自分にその曲の担当をさせてもらえるように会社に頼みました。
プロデューサーになったばかりの僕でしたが、なにしろ会議でもボツになった曲だったので、その要望は簡単に聞き入れられました。
それが運良く、ドラマ「金曜日の妻達へ PartⅢ」の主題歌に決まり、社会現象を起こすような大ヒットになりました。
そのときのことがあったので、T子さんの存在はよく知っていたのです。
その曲名は「恋に落ちて」。
当時上映していた洋画の邦題をテレビドラマがサブタイトルに使用し、それをそのまま主題歌のタイトルにしたのです。
考えてみたらけっこう安易な作り方ではありました。
T子さんが歌わないというので、作曲した本人(小林明子)に歌ってもらい、それがヒットしました。
その曲が発売されて半年後、小林明子さんと二人でニューヨークにレコーディングに行った事がありました。
実はその時も、人生で起きることは全部決まっていると認めざるを得ないような出来事があったのですが、それはまたいつかお話します。
さて話は成田空港に戻ります。
最初にT子さんを見たときの印象は、ずいぶんと落ち着いた女性だなっていうことでした。
今までに出会ってきた人とは違う大人の雰囲気がありました。
飛行機への搭乗手続きをするときに、彼女のチケットも預かって2人分をカウンターに差し出しました。
「お二人様、お隣の席でいいですか」
こう質問された時、あなたなら
「はい、お願いします」
って答えますか?
でも僕の場合は、会ったばかりの異性に失礼のないように、別々のシートを頼むような妙にカッコウをつけたところがあります。
なれなれしく思われるのが嫌なのかもしれません。
ところがこのときは
「はい、お願いします」
とっさにそう言って、そんな自分が信じられず、同時にT子さんの反応が気になり、思わず振り向いてしまいました。
彼女は、何事もなく平然とした顔をしていたので少しホッとしました。
かなりの長旅です。
本当は僕も隣り合わせのほうが楽しかったのですから、この時は自分に正直に行動できたのかもしれません。
飛行機に乗り込んでからというもの、お互い何故この時期にプーナに向かうことになったかで話が弾みました。
さらには「恋に落ちて」の楽曲を僕が担当させてもらったことなどを話したように思います。
なにか親しみを感じて、当時は人見知りの激しかった僕が、ずいぶんとリラックスして話しをすることができました。
途中バンコクを経由して、インド西海岸のボンベイに到着したのは、成田を出て10時間くらいしてからではなかったでしょうか。
その間ずっと時間を忘れて話をしていたわけですから、気が合ったんでしょうね。
とはいうものの、それ以上接近することはお互いの人生では不可能なことだったし、もちろん期待もしませんでした。
ボンベイから飛行機を乗り換えてプーナに着いた所で、それぞれの現地での目的が違うので、そこでお別れするはずでした。
人の縁というのは、時と場所と、もうひとつハプニングという形で訪れるのかもしれません。
T子さんとの関係がさらに接近していくには、その先いくつものハプニングが必要でした。
ボンベイに着いたのは深夜でした。
その飛行機には僕達のほかにも、喜納昌吉さんのインド公演に同行する人たちや、ラジニーシに会うことを目的にした人たちが20名くらいでツアーを組んでいて、僕はその中の男性の一人とボンベイのホテルにチェックインしました。
T子さんも同じホテルに泊ることになり、ホテルのカウンターでチェックインを済ませて、
「それじゃ、おやすみなさい。明日はいよいよプーナですね」
とご挨拶して別れました。
T子さんは先に自分の部屋に向かいました。
僕も自分の部屋に入ったのですが、同部屋の男性が、一緒に飛行機に乗った人の中に沖縄の霊能者がいるから遊びにいこうと言い出しました。
行ってみると、そこには10名近くの人たちが集まっていて、ラジニーシの話や、霊界の不思議な話で盛り上がっていました。
するとそこにフロントから電話が入りました。
日本人の荷物が一つ置き忘れてあるから今から届けるというのです。
届いた荷物はその部屋に集まっていた人達の物ではありませんでした。
小さな名札がついていてT子さんの名前があったのです。
僕は彼女を知っていたので、部屋に届けることになりました。
この時点で2つの偶然がありました。
1つは彼女が荷物をフロントに置き忘れたこと。
フロントのスタッフが届けてきた部屋に、たまたま僕がいたことです。
ドアをノックしました。
彼女が小さくドアを開けて僕だとわかると「アラ?」と不思議そうな顔をしましたが、僕が置き忘れた荷物を届けに来たのだと知って、ニッコリと「ありがとう」と言いました。
そのまますぐに帰るつもりでした。
会ったばかりの女性の部屋に入り込むような無礼な人間ではありません。
その時、彼女の背後に大きな窓が見えて、外には満月のアラビア海が広がっていました。
彼女だけがオーシャンビューだったのです。
「うわ、驚いた!綺麗ですね」
「すごい景色よ。中からご覧になる?」
「はい、少し見せてください」
南国のヤシの木が一定の間隔に立ち並んでいて、広々とした浜辺が月明かりに照らされています。
アラビア海に満月、そしてまるで砂漠のような広い砂浜。
僕は言いました。
「これでラクダが歩いてきたら完璧ですよね」
そしたら・・・・!!!
本当にラクダが歩いてきたのです。
思わず言いました。
「ちょっと浜辺に出てみませんか」
人気のない夜のアラビア海の浜辺に、なぜラクダが歩いていたのか。
その謎はすぐに解けました。
観光客を乗せて歩くためのラクダが、夜は一定の区域を自由に歩き回っていたのです。
浜辺は満月に照らされて、とても幻想的でした。
それは知り合ったばかりの男女が恋に落ちるのには最高のムードだったのです。
T子さんと親密な関係になるために、事を計画したわけではありません。
それはとても自然な形で、そうなるように運ばれたとしか思えません。
手に入れようとしても、どうしても拒絶されてしまって、どんなに努力しても叶わないこともあります。
去年、とある新人歌手を発掘して大手レコード会社との契約まで話を進めたのですが、いつのまにか第三者がその権利を持っていってしまいました。
そのアーティストを売り出すための秘策があったので、ぜひとも自分がやりたかったのですが、どうやってもうまくいきませんでした。
今思えば、僕がやる仕事ではなかったのだと思います。
もしそれで成功していたら本来の活動ができなくなっていたでしょうし、もし成功しなければ、そこに使うエネルギーは膨大なものになっていたでしょう。
いずれにしてもあまり幸せな気持ちにはなれなかったと思います。
反対に何も画することなく進んでいく現実もあります。
やはり何か見えない大きな力によって、我々の人生が決められているのではないでしょうか。
T子さんとの月の浜辺は、その後、我々の人生がある程度決められている事を認めざるを得ない、そんな結果へと繋がっていったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・
先日、母が沖縄に遊びに来て、そのとき一枚の家計図を持ってきました。
それは母の母方にあたる一族のもので、一番下には僕の名前も書かれていました。
その中に1人の女性の名前があります。
その人は「ナルミ」さんといい、新潟の由緒ある大店のお嬢さんですが、大正時代にこの一族に嫁いできたのです。
その「ナルミ」さんの子孫が、今のこの一族の中心になっているようです。
さて話はT子さんとのその後に移ります。
いつのまにかすっかり意気投合し、まるで最初から決められていたかのように二人は急接近しました。
そんなある日、何気なく僕は彼女に話しかけました。
「実はね、僕の親戚に面白い人達がいて、戦後になってからもずっと都内の一等地で牧場をやっていたんだよ。」
「あら、私の親戚もそうよ」
「そんなことないよ。都内には一つしかなかったって聞いているから」
「私もそう聞いている」
「おかしいな・・・○○牧場っていうんだけど・・・」
「あら、家と同じ名前」
「へえ、同じ名前の牧場があったんだ・・・!!!・・・もしかして同じ牧場?」
「え?同じ・・・なの?」
お互いの親にその旨を話したところ、なんとそれは同じものだった。
ということは・・・僕達親戚?
話は今から100年も前のことです。
僕の祖父は、東京にあった○○牧場の跡取り息子の家庭教師をしていたそうです。
その後、祖父は○○牧場の娘を嫁にもらうことになり、6人の子供をもうけます。
その長女が僕の母です。
その跡取り息子のもとに、新潟の有名な写真館のお嬢さんが嫁いでくることになりました。
当時写真館といえば、もっともハイカラな職業のひとつで、その中でも新潟県のY写真館は、その建物といい設備といい、目を見張るものがありました。
そのお嬢さんの婚礼ということで、それはそれは豪勢な花嫁道具だったと、いまでも語り継がれているそうです。
そしてその花嫁さんは・・・・なんとT子さんの祖父の妹です。
つい最近発売された雑誌にY写真館が特集されていて、そこに残る資料は歴史的に価値があるものが多いとのことでした。
そこに掲載されている写真の中で、何度も登場するのが明治時代その写真館の一人娘だったナルミさん(花嫁)です。
何かにつけて写真館のモデルになったようで、その家の溺愛ぶりが窺えます。
そんなに可愛がられたお嬢さんが、なぜ東京くんだりまで嫁いできたのか、その真相を知る人は、すでにいません。
でもひとつだけいえるのは、僕とT子さんが親戚同士だということです。
その確率はどれくらいでしょうか。
親族全員を仮に100人だとすると、その確率は120万分の1になります。
これは何を意味しているのでしょう。
もし僕たちの出会いが偶然ではなく最初から決められたものであるとしたら、この世の全ての出来事は決められていることになります。
<随(かんながら)神>の物語の冒頭にも書きましたが、この世は時間という縦糸と関係性という横糸が織りなすタペストリーなので、ひとつの部分が決められているためには、全体が決められている必要があるからです。
そうなると、あらゆる人のあらゆる出会いは必然ということになり、何か見えないご縁で結ばれているのだと思います。
たまたま僕とT子さんは「都内の牧場」というシンボルがあったので、その縁が判明しましたが、あたなとあなたの大切な人たちとも、今はわかっていないだけで凄い縁がある可能性があります。
「袖擦れ合うも他生の縁」
この諺(ことわざ)が、がぜん真実味を帯びて聞こえてきます。
だからこそ、すべての人との出会いを大切にしなければなりません。
今はまだ詳しくは話せませんが、僕の身にはこのような話がたくさんあるのです。
だから僕自身は、「全ては決められている」という考え方を信じています。
それを信じると、とても楽チンです。
「思し召すままに」の心境になって、じたばたしなくなるからです。
しかし同時に、人間には現実を作り出していく能力が与えられているというのも真実です。
この矛盾する2つの真実が溶け合うところに、真理が存在するのだと思います。
母が持ってきた家系図を見て思いました。
一番上に書かれている人が、もし病に倒れて早く亡くなっていたら、その下の人達全員がいないんだなって。
そこには書かれていないけれど、そのずっと前から先祖とのつながりがあるわけで、その中の一人の運命が違っていたら、全部が違ってくるわけで。
考えてみたら、僕達ってすごい確率で生きているんですよね。
しかもみんな超エリートです。
なぜかというと、僕たちの親の親の親の親・・・何人いるか知らないけれど、その人たちは全員、少なくとも子供を作れる年齢まで生きていたわけで、子供の頃に死んでしまった人は一人もいない。
多くの時代の中には、飢饉の時も戦争の時もあっただろうし、そんな中にあって生き延びた人たちばかり。
しかも不妊症の人もインポテンツも無精子症の人も一人もいなかった。
これって凄くないですか?
さらにはたまたまその日に男女が愛し合って、そのタイミングの性行為で放出された数億の精子から選ばれたのが、僕たちであり僕たちの先祖であり、そのうちの一人でも違う精子で生まれていたら、その後の全員がいないわけです。
僕らがここにこうして生きていることの不思議を考えると、ただただ奇跡としか言いようがないですね。
この言葉を最近よく耳にするようになりました。
僕らの運命はあらかじめ決まっているのでしょうか。
それとも自分の選択によって、どのようにでも創り出していけるのでしょうか。
僕達がものを考える時は論理的に考えようとするので、YesかNoか、右か左か、あるのかないのかといった具合になります。
ところが真理はその両方を含んでいて、だから言葉で表せないのです。
仏陀にこんな質問が頻繁に寄せられたといいます。
「神はいますか?」
すると仏陀は
「いる」
と答えたり
「いない」
と答えたり
「どちらとも言えない」
と答えたり
その答えはまちまちだったそうです。
質問者によって答えを変えていたようなのです。
それは質問者の偏った信念を中道にもどすことが目的だったからでしょう。
さて、僕らの運命があらかじめ決まっているかどうかの話ですが、ここに一つの証拠を示唆するような現実があります。
それはAが押し出されるようにしてインドに向かったときのこと。
物語でのこの部分の経緯は、すべて事実をもとに書いています。
本当に不思議な力に後押しされるような状態で、否応なくインド行きの飛行機に乗ることになったのです。
そして物語には登場しませんでしたが、その同じ飛行機に、同じように否応なく押し出されるようにして乗ることになった一人の女性がいました。
その人の名前はT子さん。
順風満帆な半生を送ってきた彼女。
仕事にも家族にも恵まれて、多くのひとから羨まれる生活をしていた彼女の心に、ある時期を境に、人生について真剣に考えてみたいという欲求が生まれました。
人はなんのために生まれ、何故死んでいくのか。
社会的にいくら成功しても、それが生きる意味を満たしてくれるわけではない。
そんなあるとき、オーストラリアに住む昔からの友人の女性が彼女の家に遊びに来ました。
その女性はラジニーシ(物語の中ではダルマージ・現在は和尚という名で知られている)の弟子になっていて、T子さんの話を聞いた彼女はラジニーシの講話集を読むように勧めました。
そんなことが縁で読み始めたラジニーシの本。
その美しい言葉達と、初めて触れる真理の世界に、T子さんはすっかり魅了されていきました。
T子さんはプロのシンガーでしたが、そんな彼女の音楽スタッフが喜納昌吉さんのスタッフも兼ねていて、こんど昌吉がインドに演奏旅行に行くことになりラジニーシのアシュラムにも立ち寄るから同行してはどうかという話を持ってきました。
最近のT子さんが時折思いつめたような表情を浮かべるようになったのを見て、彼女を心配してのことでした。
でも彼女は気が進みませんでした。
たしかにラジニーシの話には感銘を受けていたのですが、だからといって本人の元に行くまでのことではないと感じていたからです。
それに出発の日程はすぐ目の前に迫っていました。
パスポートもビザもなく、すぐにインドに行くことは物理的にも不可能なことでした。
そうしようと思っても、なかなか思うように事が運ばないことがあります。
かと思うと、自分の意思とは関係なく、一定の方向にぐいぐいと引き寄せられてしまうこともあります。
まさにこの時のT子さんがそれでした。
それほど気のりがしなかったインド行き。
それを周囲が執拗に勧めるのです。
それもこれも、周囲がT子さんの気持ちが晴れることを願ってのことでした。
しかし出発日は1週間後にせまっていました。
パスポートを申請するだけでも、もっと多くの時間がかかってしまいます。
しかもその後でインド行きのビザを申請するのですから、間に合うわけがありません。
普通なら間に合うわけがないのです。
少しホッとした気持ちのT子さんでした。
ところが奇跡が起きたのです。
たまたま知り合いのJALの搭乗員が遊びに来て、事情を知ると、強く頼んだわけでもないのにあれよあれよという間に、すべてをクリアしてしまいました。
もう断るわけにもいきません。
数日後、一緒に行くはずだったNHKの女性ディレクターは急遽行けなくなってしまいました。
文字通り、たった一人のインド旅行になってしまったのです。
当日不安な気持ちでインド行きカウンターに行くと、向うからヒッピーのような出で立ちの男がやってきました。
Aでした。
「あれがA君だよ」
空港まで同行してくれた音楽スタッフは彼女の耳元でそうささやきました。
Aのことはこのスタッフから何度となく話を聞いていました。
『僕達はひとつの同じものだ』とか『時間なんてなくていつも今ここだ』とか、へんな事を突然言い出したということ。
人と一緒にいても、いつもどこか遠くを見ているような男だということ。
そして最近、山奥の神社に住み込んでしまったということ。
近づいてくるAを見てT子さんは思いました。
「やっぱり噂どおり、ちょっと変わった感じの人だ」
僕は僕で出発直前になって、この仕事を依頼してきたスタッフからこう告げられました。
「実はね、T子さんが急に昌吉のツアーに参加することになったんだが、プーナまでの道のりをよろしく頼むよ」
物語の本編にも書いたように、僕自身も考えられないようなことが連続して起こり、押し出されるようにして行くことになったインド旅行でした。
頭の中はこれから起こるであろう不思議な冒険への期待で占められていたので、誰かを同行させることくらいお安い御用でした。
「いいですよ」
簡単に答えはしましたが、この同行が人生に劇的な変化をもたらすことになるとは、その時は夢にも思いませんでした。
出発カウンターにやってくると、むこうにスタッフとT子さんが見えました。
T子さんとは過去にちょっとした縁がありました。
僕がテレビ主題歌を制作する音楽プロデューサーに抜擢された時、自分に与えられた机の上に、誰が置いたか一本のデモテープがありました。
それには『T子アルバム候補曲』と書かれていました。
それはアマチュア作曲家が作ったものでしたが、T子さん本人が歌うのを辞退したということでお蔵入りになったものでした。
聞いてみると美しい旋律です。
僕は自分にその曲の担当をさせてもらえるように会社に頼みました。
プロデューサーになったばかりの僕でしたが、なにしろ会議でもボツになった曲だったので、その要望は簡単に聞き入れられました。
それが運良く、ドラマ「金曜日の妻達へ PartⅢ」の主題歌に決まり、社会現象を起こすような大ヒットになりました。
そのときのことがあったので、T子さんの存在はよく知っていたのです。
その曲名は「恋に落ちて」。
当時上映していた洋画の邦題をテレビドラマがサブタイトルに使用し、それをそのまま主題歌のタイトルにしたのです。
考えてみたらけっこう安易な作り方ではありました。
T子さんが歌わないというので、作曲した本人(小林明子)に歌ってもらい、それがヒットしました。
その曲が発売されて半年後、小林明子さんと二人でニューヨークにレコーディングに行った事がありました。
実はその時も、人生で起きることは全部決まっていると認めざるを得ないような出来事があったのですが、それはまたいつかお話します。
さて話は成田空港に戻ります。
最初にT子さんを見たときの印象は、ずいぶんと落ち着いた女性だなっていうことでした。
今までに出会ってきた人とは違う大人の雰囲気がありました。
飛行機への搭乗手続きをするときに、彼女のチケットも預かって2人分をカウンターに差し出しました。
「お二人様、お隣の席でいいですか」
こう質問された時、あなたなら
「はい、お願いします」
って答えますか?
でも僕の場合は、会ったばかりの異性に失礼のないように、別々のシートを頼むような妙にカッコウをつけたところがあります。
なれなれしく思われるのが嫌なのかもしれません。
ところがこのときは
「はい、お願いします」
とっさにそう言って、そんな自分が信じられず、同時にT子さんの反応が気になり、思わず振り向いてしまいました。
彼女は、何事もなく平然とした顔をしていたので少しホッとしました。
かなりの長旅です。
本当は僕も隣り合わせのほうが楽しかったのですから、この時は自分に正直に行動できたのかもしれません。
飛行機に乗り込んでからというもの、お互い何故この時期にプーナに向かうことになったかで話が弾みました。
さらには「恋に落ちて」の楽曲を僕が担当させてもらったことなどを話したように思います。
なにか親しみを感じて、当時は人見知りの激しかった僕が、ずいぶんとリラックスして話しをすることができました。
途中バンコクを経由して、インド西海岸のボンベイに到着したのは、成田を出て10時間くらいしてからではなかったでしょうか。
その間ずっと時間を忘れて話をしていたわけですから、気が合ったんでしょうね。
とはいうものの、それ以上接近することはお互いの人生では不可能なことだったし、もちろん期待もしませんでした。
ボンベイから飛行機を乗り換えてプーナに着いた所で、それぞれの現地での目的が違うので、そこでお別れするはずでした。
人の縁というのは、時と場所と、もうひとつハプニングという形で訪れるのかもしれません。
T子さんとの関係がさらに接近していくには、その先いくつものハプニングが必要でした。
ボンベイに着いたのは深夜でした。
その飛行機には僕達のほかにも、喜納昌吉さんのインド公演に同行する人たちや、ラジニーシに会うことを目的にした人たちが20名くらいでツアーを組んでいて、僕はその中の男性の一人とボンベイのホテルにチェックインしました。
T子さんも同じホテルに泊ることになり、ホテルのカウンターでチェックインを済ませて、
「それじゃ、おやすみなさい。明日はいよいよプーナですね」
とご挨拶して別れました。
T子さんは先に自分の部屋に向かいました。
僕も自分の部屋に入ったのですが、同部屋の男性が、一緒に飛行機に乗った人の中に沖縄の霊能者がいるから遊びにいこうと言い出しました。
行ってみると、そこには10名近くの人たちが集まっていて、ラジニーシの話や、霊界の不思議な話で盛り上がっていました。
するとそこにフロントから電話が入りました。
日本人の荷物が一つ置き忘れてあるから今から届けるというのです。
届いた荷物はその部屋に集まっていた人達の物ではありませんでした。
小さな名札がついていてT子さんの名前があったのです。
僕は彼女を知っていたので、部屋に届けることになりました。
この時点で2つの偶然がありました。
1つは彼女が荷物をフロントに置き忘れたこと。
フロントのスタッフが届けてきた部屋に、たまたま僕がいたことです。
ドアをノックしました。
彼女が小さくドアを開けて僕だとわかると「アラ?」と不思議そうな顔をしましたが、僕が置き忘れた荷物を届けに来たのだと知って、ニッコリと「ありがとう」と言いました。
そのまますぐに帰るつもりでした。
会ったばかりの女性の部屋に入り込むような無礼な人間ではありません。
その時、彼女の背後に大きな窓が見えて、外には満月のアラビア海が広がっていました。
彼女だけがオーシャンビューだったのです。
「うわ、驚いた!綺麗ですね」
「すごい景色よ。中からご覧になる?」
「はい、少し見せてください」
南国のヤシの木が一定の間隔に立ち並んでいて、広々とした浜辺が月明かりに照らされています。
アラビア海に満月、そしてまるで砂漠のような広い砂浜。
僕は言いました。
「これでラクダが歩いてきたら完璧ですよね」
そしたら・・・・!!!
本当にラクダが歩いてきたのです。
思わず言いました。
「ちょっと浜辺に出てみませんか」
人気のない夜のアラビア海の浜辺に、なぜラクダが歩いていたのか。
その謎はすぐに解けました。
観光客を乗せて歩くためのラクダが、夜は一定の区域を自由に歩き回っていたのです。
浜辺は満月に照らされて、とても幻想的でした。
それは知り合ったばかりの男女が恋に落ちるのには最高のムードだったのです。
T子さんと親密な関係になるために、事を計画したわけではありません。
それはとても自然な形で、そうなるように運ばれたとしか思えません。
手に入れようとしても、どうしても拒絶されてしまって、どんなに努力しても叶わないこともあります。
去年、とある新人歌手を発掘して大手レコード会社との契約まで話を進めたのですが、いつのまにか第三者がその権利を持っていってしまいました。
そのアーティストを売り出すための秘策があったので、ぜひとも自分がやりたかったのですが、どうやってもうまくいきませんでした。
今思えば、僕がやる仕事ではなかったのだと思います。
もしそれで成功していたら本来の活動ができなくなっていたでしょうし、もし成功しなければ、そこに使うエネルギーは膨大なものになっていたでしょう。
いずれにしてもあまり幸せな気持ちにはなれなかったと思います。
反対に何も画することなく進んでいく現実もあります。
やはり何か見えない大きな力によって、我々の人生が決められているのではないでしょうか。
T子さんとの月の浜辺は、その後、我々の人生がある程度決められている事を認めざるを得ない、そんな結果へと繋がっていったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・
先日、母が沖縄に遊びに来て、そのとき一枚の家計図を持ってきました。
それは母の母方にあたる一族のもので、一番下には僕の名前も書かれていました。
その中に1人の女性の名前があります。
その人は「ナルミ」さんといい、新潟の由緒ある大店のお嬢さんですが、大正時代にこの一族に嫁いできたのです。
その「ナルミ」さんの子孫が、今のこの一族の中心になっているようです。
さて話はT子さんとのその後に移ります。
いつのまにかすっかり意気投合し、まるで最初から決められていたかのように二人は急接近しました。
そんなある日、何気なく僕は彼女に話しかけました。
「実はね、僕の親戚に面白い人達がいて、戦後になってからもずっと都内の一等地で牧場をやっていたんだよ。」
「あら、私の親戚もそうよ」
「そんなことないよ。都内には一つしかなかったって聞いているから」
「私もそう聞いている」
「おかしいな・・・○○牧場っていうんだけど・・・」
「あら、家と同じ名前」
「へえ、同じ名前の牧場があったんだ・・・!!!・・・もしかして同じ牧場?」
「え?同じ・・・なの?」
お互いの親にその旨を話したところ、なんとそれは同じものだった。
ということは・・・僕達親戚?
話は今から100年も前のことです。
僕の祖父は、東京にあった○○牧場の跡取り息子の家庭教師をしていたそうです。
その後、祖父は○○牧場の娘を嫁にもらうことになり、6人の子供をもうけます。
その長女が僕の母です。
その跡取り息子のもとに、新潟の有名な写真館のお嬢さんが嫁いでくることになりました。
当時写真館といえば、もっともハイカラな職業のひとつで、その中でも新潟県のY写真館は、その建物といい設備といい、目を見張るものがありました。
そのお嬢さんの婚礼ということで、それはそれは豪勢な花嫁道具だったと、いまでも語り継がれているそうです。
そしてその花嫁さんは・・・・なんとT子さんの祖父の妹です。
つい最近発売された雑誌にY写真館が特集されていて、そこに残る資料は歴史的に価値があるものが多いとのことでした。
そこに掲載されている写真の中で、何度も登場するのが明治時代その写真館の一人娘だったナルミさん(花嫁)です。
何かにつけて写真館のモデルになったようで、その家の溺愛ぶりが窺えます。
そんなに可愛がられたお嬢さんが、なぜ東京くんだりまで嫁いできたのか、その真相を知る人は、すでにいません。
でもひとつだけいえるのは、僕とT子さんが親戚同士だということです。
その確率はどれくらいでしょうか。
親族全員を仮に100人だとすると、その確率は120万分の1になります。
これは何を意味しているのでしょう。
もし僕たちの出会いが偶然ではなく最初から決められたものであるとしたら、この世の全ての出来事は決められていることになります。
<随(かんながら)神>の物語の冒頭にも書きましたが、この世は時間という縦糸と関係性という横糸が織りなすタペストリーなので、ひとつの部分が決められているためには、全体が決められている必要があるからです。
そうなると、あらゆる人のあらゆる出会いは必然ということになり、何か見えないご縁で結ばれているのだと思います。
たまたま僕とT子さんは「都内の牧場」というシンボルがあったので、その縁が判明しましたが、あたなとあなたの大切な人たちとも、今はわかっていないだけで凄い縁がある可能性があります。
「袖擦れ合うも他生の縁」
この諺(ことわざ)が、がぜん真実味を帯びて聞こえてきます。
だからこそ、すべての人との出会いを大切にしなければなりません。
今はまだ詳しくは話せませんが、僕の身にはこのような話がたくさんあるのです。
だから僕自身は、「全ては決められている」という考え方を信じています。
それを信じると、とても楽チンです。
「思し召すままに」の心境になって、じたばたしなくなるからです。
しかし同時に、人間には現実を作り出していく能力が与えられているというのも真実です。
この矛盾する2つの真実が溶け合うところに、真理が存在するのだと思います。
母が持ってきた家系図を見て思いました。
一番上に書かれている人が、もし病に倒れて早く亡くなっていたら、その下の人達全員がいないんだなって。
そこには書かれていないけれど、そのずっと前から先祖とのつながりがあるわけで、その中の一人の運命が違っていたら、全部が違ってくるわけで。
考えてみたら、僕達ってすごい確率で生きているんですよね。
しかもみんな超エリートです。
なぜかというと、僕たちの親の親の親の親・・・何人いるか知らないけれど、その人たちは全員、少なくとも子供を作れる年齢まで生きていたわけで、子供の頃に死んでしまった人は一人もいない。
多くの時代の中には、飢饉の時も戦争の時もあっただろうし、そんな中にあって生き延びた人たちばかり。
しかも不妊症の人もインポテンツも無精子症の人も一人もいなかった。
これって凄くないですか?
さらにはたまたまその日に男女が愛し合って、そのタイミングの性行為で放出された数億の精子から選ばれたのが、僕たちであり僕たちの先祖であり、そのうちの一人でも違う精子で生まれていたら、その後の全員がいないわけです。
僕らがここにこうして生きていることの不思議を考えると、ただただ奇跡としか言いようがないですね。
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10:41
│120万分の1の確率