2007年10月17日
タントラへの道
いまは精神世界の書籍や情報が巷に溢れていますが、たかだか20数年までは、ほとんど出会うことはありませんでした。
スピリチュアルという言葉も、当時ある会議で使ったら、英語に堪能な人までもが「なんじゃそれ?」って顔で僕を見ていたのを思い出します。
あのころ東京の本屋さんで、精神世界のコーナーがあったのは、ヒッピーが多く集まっていた西荻窪の小さな本屋さんと、六本木の麻布警察署の隣にあった青山ブックセンターくらいのものだったように思います。
もちろん新興宗教の教祖さんの本は、いろんな本屋に並んでいましたが、ちょっと読んだだけで、あまりにも強引な文脈に、それ以上の興味を持つことができませんでした。
そんな中で、青山ブックセンターで見つけた一冊の本は、それ以後長きに渡って僕のバイブルとなりました。
その本の名前は
「タントラへの道」
チョギャムトウルンパというチベット密教カーギュ派の師の講話録でしたが、一分の隙もなく、真理を見事な言葉で言い表してくれていました。
僕は10冊以上買ったと思いますが、みんな人にあげてしまったり失くしてしまったりで、いまは手元にありません。
チョギャムトウルンパの足元にも及びませんが、同じような気づきの体験をした人への、わずかながらでも助けになれたら嬉しいと思い、僕もささやかにブログ活動なんぞ続けているわけです。
最初にこの本に出会ってよかったのは、精神の道が決してドラマチックなものではなく、むしろ淡々とした、たいくつさを伴うものだということを教えてもらったことです。
僕たちは自分の精神性を高めていく途上で、いつか奇跡が起こったり、劇的な出来事が起きたりする事を期待してしまいますが、実際にはそんなことはなく、ただシンプルであたりまえな人間になっていくことにすぎません。
霊能力が発揮されたり、超人になったり、高潔な聖人になることと、精神性が高まって真理を獲得することとは何の関係もありません。
僕らは、特別な何かになろうとし、自分の人生に特別な出来事を期待してしまうのです。
精神性が高まるというのは、自我の存在が無くなっていくということです。
ところが自我というものは非常に狡猾で、精神性の高まりさえも自分を飾るアクセサリーにしてしまうのです。
それを「精神の物質主義」と呼びます。
精神の道は、誰も見ていてくれません。
誰も誉めてもくれません。
それは孤独な道なのです。
幾重にも身にまとった自己欺瞞をひとつひとつ見つめ、皮膚を剥ぐような思いで自分を裸にしていく。
それは苦痛と屈辱にまみれながらの、自分との戦いなのです。
チョギャムトゥルンパ師は「タントラへの道」という本をとおして、そんな基本を徹底的に教えてくれました。
チョギャムトゥルンパの「タントラへの道」に最初に出会ったことは、今の僕の考え方に大きな影響を与えています。
宗教、経典、霊感、教祖、聖者、覚者といったシンボルに惑わされなくなったからです。
どのような権威も、どのような神聖なイメージも、己が真理に行き着くためには、邪魔な存在でしかありません。
それらはすべてまやかしだと断言し、あるがままの自己と共に一人立つところが本当のスタートです。
こんな僕に対してさえ何かしらの霊的幻想を抱き、高く評価して執着しようとする人がいます。
そのような人は、いずれ自分の美学に反する側面を僕の中に見たとき、僕から去っていく人です。
勝手に恋をして、勝手に失望していくのです。
トゥルンパ師は言います。
精神の道を歩きたいのであれば、まずは徹底的に希望と期待を捨てることから始めろと。
すがりつくものが何一つ無い、そんな絶望的状況の中で、初めて教えが身についていくと。
でも多くの人は、それをやろうとしません。
自分の可能性を信じ、自分を導いてくれる崇高な魂の持ち主を待ち望んでいるのです。
そうやって自我は、精神の道さえも、自分を飾る新しいコレクションに変えてしまうのです。
僕はチベットの僧院で修行してきたんだ。
それはそれは神秘的な毎日だったよ。
静寂の中で何度も次元を超えた世界を垣間見たんだ。
規則正しい生活、深遠なグルの教え、幾世代にわたり大切に守られてきた経典。
どれもこれも神聖で素晴らしい体験だった。
君も行ってごらんよ。
このような態度も同じく「精神の物質主義」なのです。
タントラというと、ちょっと詳しい人はすぐに、セックスを教義に取り入れた宗教だと連想します
たしかにタントラはセックス行為を修行の中に取り入れている部分があります。
でもそれは一定期間の修行を終えた人達、もっと言えば性欲を100%コントロールできる段階の人たちによって扱われてきたテクニックです。
ではなぜ彼らはセックスを使うのでしょうか。
それはタントラが、「生」に対して全面的肯定の立場をとっているからです。
何かを抑圧するのではなく、自然が与えた人間の可能性を全部引き出して、意識の高みに昇ろうとするのです。
したがって、タントラの修行は身体的なものが多いのです。
通常宗教的修行の多くは、精神的なものや霊的なものが多いのですが、タントラは違います。
それはタントラが、極めて現実主義だからです。
実際のところ、僕たちは身体しか知らないのです。
多くの人達は、霊だとか、魂だとか、あたり前のように知っているつもりでいますが、それは知識として知っているるだけで、あるいは感覚として漠然と知っているような気がしているだけで、本当に正直に自分を見つめれば、実際に確信できるのは身体だけなのです。
だからといって、霊や魂がないと言っているのではありませんが、彼方なる次元に行き着いて初めて知る事を、むやみに知ったかぶることは無意味だとタントラは言います。
そのような観点から見てみますと、タントラはあらゆる宗教の中でも、もっとも現実的なアプローチをしているように思います。
スピリチュアルという言葉も、当時ある会議で使ったら、英語に堪能な人までもが「なんじゃそれ?」って顔で僕を見ていたのを思い出します。
あのころ東京の本屋さんで、精神世界のコーナーがあったのは、ヒッピーが多く集まっていた西荻窪の小さな本屋さんと、六本木の麻布警察署の隣にあった青山ブックセンターくらいのものだったように思います。
もちろん新興宗教の教祖さんの本は、いろんな本屋に並んでいましたが、ちょっと読んだだけで、あまりにも強引な文脈に、それ以上の興味を持つことができませんでした。
そんな中で、青山ブックセンターで見つけた一冊の本は、それ以後長きに渡って僕のバイブルとなりました。
その本の名前は
「タントラへの道」
チョギャムトウルンパというチベット密教カーギュ派の師の講話録でしたが、一分の隙もなく、真理を見事な言葉で言い表してくれていました。
僕は10冊以上買ったと思いますが、みんな人にあげてしまったり失くしてしまったりで、いまは手元にありません。
チョギャムトウルンパの足元にも及びませんが、同じような気づきの体験をした人への、わずかながらでも助けになれたら嬉しいと思い、僕もささやかにブログ活動なんぞ続けているわけです。
最初にこの本に出会ってよかったのは、精神の道が決してドラマチックなものではなく、むしろ淡々とした、たいくつさを伴うものだということを教えてもらったことです。
僕たちは自分の精神性を高めていく途上で、いつか奇跡が起こったり、劇的な出来事が起きたりする事を期待してしまいますが、実際にはそんなことはなく、ただシンプルであたりまえな人間になっていくことにすぎません。
霊能力が発揮されたり、超人になったり、高潔な聖人になることと、精神性が高まって真理を獲得することとは何の関係もありません。
僕らは、特別な何かになろうとし、自分の人生に特別な出来事を期待してしまうのです。
精神性が高まるというのは、自我の存在が無くなっていくということです。
ところが自我というものは非常に狡猾で、精神性の高まりさえも自分を飾るアクセサリーにしてしまうのです。
それを「精神の物質主義」と呼びます。
精神の道は、誰も見ていてくれません。
誰も誉めてもくれません。
それは孤独な道なのです。
幾重にも身にまとった自己欺瞞をひとつひとつ見つめ、皮膚を剥ぐような思いで自分を裸にしていく。
それは苦痛と屈辱にまみれながらの、自分との戦いなのです。
チョギャムトゥルンパ師は「タントラへの道」という本をとおして、そんな基本を徹底的に教えてくれました。
チョギャムトゥルンパの「タントラへの道」に最初に出会ったことは、今の僕の考え方に大きな影響を与えています。
宗教、経典、霊感、教祖、聖者、覚者といったシンボルに惑わされなくなったからです。
どのような権威も、どのような神聖なイメージも、己が真理に行き着くためには、邪魔な存在でしかありません。
それらはすべてまやかしだと断言し、あるがままの自己と共に一人立つところが本当のスタートです。
こんな僕に対してさえ何かしらの霊的幻想を抱き、高く評価して執着しようとする人がいます。
そのような人は、いずれ自分の美学に反する側面を僕の中に見たとき、僕から去っていく人です。
勝手に恋をして、勝手に失望していくのです。
トゥルンパ師は言います。
精神の道を歩きたいのであれば、まずは徹底的に希望と期待を捨てることから始めろと。
すがりつくものが何一つ無い、そんな絶望的状況の中で、初めて教えが身についていくと。
でも多くの人は、それをやろうとしません。
自分の可能性を信じ、自分を導いてくれる崇高な魂の持ち主を待ち望んでいるのです。
そうやって自我は、精神の道さえも、自分を飾る新しいコレクションに変えてしまうのです。
僕はチベットの僧院で修行してきたんだ。
それはそれは神秘的な毎日だったよ。
静寂の中で何度も次元を超えた世界を垣間見たんだ。
規則正しい生活、深遠なグルの教え、幾世代にわたり大切に守られてきた経典。
どれもこれも神聖で素晴らしい体験だった。
君も行ってごらんよ。
このような態度も同じく「精神の物質主義」なのです。
タントラというと、ちょっと詳しい人はすぐに、セックスを教義に取り入れた宗教だと連想します
たしかにタントラはセックス行為を修行の中に取り入れている部分があります。
でもそれは一定期間の修行を終えた人達、もっと言えば性欲を100%コントロールできる段階の人たちによって扱われてきたテクニックです。
ではなぜ彼らはセックスを使うのでしょうか。
それはタントラが、「生」に対して全面的肯定の立場をとっているからです。
何かを抑圧するのではなく、自然が与えた人間の可能性を全部引き出して、意識の高みに昇ろうとするのです。
したがって、タントラの修行は身体的なものが多いのです。
通常宗教的修行の多くは、精神的なものや霊的なものが多いのですが、タントラは違います。
それはタントラが、極めて現実主義だからです。
実際のところ、僕たちは身体しか知らないのです。
多くの人達は、霊だとか、魂だとか、あたり前のように知っているつもりでいますが、それは知識として知っているるだけで、あるいは感覚として漠然と知っているような気がしているだけで、本当に正直に自分を見つめれば、実際に確信できるのは身体だけなのです。
だからといって、霊や魂がないと言っているのではありませんが、彼方なる次元に行き着いて初めて知る事を、むやみに知ったかぶることは無意味だとタントラは言います。
そのような観点から見てみますと、タントラはあらゆる宗教の中でも、もっとも現実的なアプローチをしているように思います。
2007年10月12日
時代の変化
先日、沖縄の漁師さんと話をしていたら、その人の愛読書の話になりました。
その書籍のタイトルは「神との対話」
10年前にこの本が発売された当時は、まだ僕の周囲にこの本の凄さを語れる人がいませんでしたが、いまやいたるところで、そんな人たちとお会いします。
しかも、内容を深く感じ取っている人が多いのです。
そんなことからも、時代は一気に変わりつつあると感じます。
昔は、ごく一部の突出した魂だけが行き着いた悟りの境地を、いまや僕たちのような一般の人間が、あたりまえのようにその感覚をつかみ出したのです。
この波はますます強くなり、多くの魂を彼岸に導いていくことでしょう。
その加速度は倍々になっているといいます。
ワクワクしますね。
この<かんながら>の物語の中にも、時代がそのように変わっていくことが予言されていますが、本当にそうなってきたというのが僕の実感です。
これからも一緒に旅を続けましょう。
これからもよろしくお願いします
↓
その書籍のタイトルは「神との対話」
10年前にこの本が発売された当時は、まだ僕の周囲にこの本の凄さを語れる人がいませんでしたが、いまやいたるところで、そんな人たちとお会いします。
しかも、内容を深く感じ取っている人が多いのです。
そんなことからも、時代は一気に変わりつつあると感じます。
昔は、ごく一部の突出した魂だけが行き着いた悟りの境地を、いまや僕たちのような一般の人間が、あたりまえのようにその感覚をつかみ出したのです。
この波はますます強くなり、多くの魂を彼岸に導いていくことでしょう。
その加速度は倍々になっているといいます。
ワクワクしますね。
この<かんながら>の物語の中にも、時代がそのように変わっていくことが予言されていますが、本当にそうなってきたというのが僕の実感です。
これからも一緒に旅を続けましょう。
これからもよろしくお願いします
↓
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10:52
2007年10月11日
人生の優先順位
向さん、ありがとうございました。
向さんのような人生を選んだ人と、僕たちとの違いはどこにあるのでしょう。
それは、人生の中で何が一番大切なのか、何を優先順位の一位として生きるのか、そのチョイスの違いだと思います。
もし僕たちが、自分を高め、神仏に近づく事が何より大切なことだと思えば、日々の生活そのものが、そのための修業になっていくことでしょう。
反対に、人生とは安全や幸せを求めて、日々奮闘しながら、いつの日かそんな幸せを掴み取るのだと思えば、そんな生き方になっていくでしょう。
僕たちは頭では前者に共感し、実際には後者の生き方を選んでいるのではないでしょうか。
真実を言えば、あれもこれも手に入れることはできません。
夢を見ているか、夢から覚めるかどちらかなのです。
おそらく僕たちは、もっと徹底して真理を求め、それを唯一の目的として生きることを求められているのでしょう。
現実的には僕たちは出家するわけにもいかず、この生身の身体を抱えながら、シャバの世界で生き続けることになります。
であれば、せめて瞬間瞬間、何を優先順位の一番に掲げて生きているのかに留意し、人生の場を修業道場として、日々自分を磨き上げていく事が大切なのではないでしょうか。
自分を磨くとは、自我とその執着から離れるということだと思います。
これからも応援よろしくお願いします。
↓
向さんのような人生を選んだ人と、僕たちとの違いはどこにあるのでしょう。
それは、人生の中で何が一番大切なのか、何を優先順位の一位として生きるのか、そのチョイスの違いだと思います。
もし僕たちが、自分を高め、神仏に近づく事が何より大切なことだと思えば、日々の生活そのものが、そのための修業になっていくことでしょう。
反対に、人生とは安全や幸せを求めて、日々奮闘しながら、いつの日かそんな幸せを掴み取るのだと思えば、そんな生き方になっていくでしょう。
僕たちは頭では前者に共感し、実際には後者の生き方を選んでいるのではないでしょうか。
真実を言えば、あれもこれも手に入れることはできません。
夢を見ているか、夢から覚めるかどちらかなのです。
おそらく僕たちは、もっと徹底して真理を求め、それを唯一の目的として生きることを求められているのでしょう。
現実的には僕たちは出家するわけにもいかず、この生身の身体を抱えながら、シャバの世界で生き続けることになります。
であれば、せめて瞬間瞬間、何を優先順位の一番に掲げて生きているのかに留意し、人生の場を修業道場として、日々自分を磨き上げていく事が大切なのではないでしょうか。
自分を磨くとは、自我とその執着から離れるということだと思います。
これからも応援よろしくお願いします。
↓
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09:49
2007年10月10日
授戒 3
ただ私の場合、師匠がずうと現役の老師として雲水を指導してこられたので、接心(特別の修行期間)のたびに荷担しながら参禅修行を続けてこられたことが、幸運であったと感謝しています。
住職となって、気ままに生きてみて分かったことは、「戒律は、なによりも自分自身のためにある」ということです。
諸々の物質的・肉体的な欲望や、怒りや貪りや驕りはエゴの囚われであって、真に安らかで楽しく活き活きとした精神生活を実現するためには不要な荷物です。
富士山の頂上にまで至り、ご来光を拝み清々しい気持ちになるためには、身に一杯の荷物を抱え引きずったままでは登ることは出来ません。
エネルギーと関心が荷物にとられて、前進し向上することができないのです。
「授戒」の意義は、こうした不要な荷物を捨て、仏教徒として自律した真実な向上の一路を歩み出そうと決意することであると思います。
「戒・定・慧(かいじょうえ)」の三学が禅・仏教徒の修行の根本とされる理由はここにあります。
戒(戒律):自分自身にとっての規律ある倫理的な生活があって、
定(禅定):心が落ちつき、今ここに成りきって生きることができ、
慧(智慧):物事を正しく見る智慧がはたらく、
というように戒・定・慧は一体となって精神生活を推進する原動力となるのです。
住職となって、気ままに生きてみて分かったことは、「戒律は、なによりも自分自身のためにある」ということです。
諸々の物質的・肉体的な欲望や、怒りや貪りや驕りはエゴの囚われであって、真に安らかで楽しく活き活きとした精神生活を実現するためには不要な荷物です。
富士山の頂上にまで至り、ご来光を拝み清々しい気持ちになるためには、身に一杯の荷物を抱え引きずったままでは登ることは出来ません。
エネルギーと関心が荷物にとられて、前進し向上することができないのです。
「授戒」の意義は、こうした不要な荷物を捨て、仏教徒として自律した真実な向上の一路を歩み出そうと決意することであると思います。
「戒・定・慧(かいじょうえ)」の三学が禅・仏教徒の修行の根本とされる理由はここにあります。
戒(戒律):自分自身にとっての規律ある倫理的な生活があって、
定(禅定):心が落ちつき、今ここに成りきって生きることができ、
慧(智慧):物事を正しく見る智慧がはたらく、
というように戒・定・慧は一体となって精神生活を推進する原動力となるのです。
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12:40
2007年10月09日
授戒 2
私自身の「授戒」は、禅僧になる決心をした29歳の時、今の方広寺派管長大井際断老師の導きによるものでした。
一般の市民のままで仏弟子になるのと違うところは、「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」、
「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」というような出家としてのより厳しい戒を授かり誓うことで、根本的なところは一般の人と同じです。
その時は、これからいよいよ禅僧としての第一歩、雲水修行が始まるんだという、緊張感と高揚感はありましたが、「授戒」の意義についてはほとんど理解せず、ただ気合いで「よく保たん!」と師匠に応えていたように思います。
あれから30年、還暦をむかえたこの頃、もう一度、仏教徒・禅僧としての覚悟を明らかにしたいと考えているところです。
60歳にもなって、何故こんなことを考えるようになったかと言うと、雲水の専門道場での修行は確かに厳しいのですが、もっぱら集団の規律に従うことを強要される他律的な修行として始まるからです。
後世に伝えられるすぐれた禅僧は、そうした他律的な修行を自発的・自律的なものとして内面化して、さらにより厳しい修行を自分に課してきました。
私の雲水時代は、「戒律」を守り修行することの意義を自らに問い、禅僧としての自身の生き方として内面化するまでには至らず、表面的に集団の修行の規律に従うことに止まっていました。
20代の学生の時から参禅し、見性体験もありましたから、私にとっての禅は、自分自身の純粋経験であり参禅であって、戒律について真剣に考えたことはありませんでした。
ですから、専門道場を出て寺の住職となり、他律的な修行から解放された時、気ままに生きてしまう自分自身がいたわけです。
つづく
一般の市民のままで仏弟子になるのと違うところは、「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」、
「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」というような出家としてのより厳しい戒を授かり誓うことで、根本的なところは一般の人と同じです。
その時は、これからいよいよ禅僧としての第一歩、雲水修行が始まるんだという、緊張感と高揚感はありましたが、「授戒」の意義についてはほとんど理解せず、ただ気合いで「よく保たん!」と師匠に応えていたように思います。
あれから30年、還暦をむかえたこの頃、もう一度、仏教徒・禅僧としての覚悟を明らかにしたいと考えているところです。
60歳にもなって、何故こんなことを考えるようになったかと言うと、雲水の専門道場での修行は確かに厳しいのですが、もっぱら集団の規律に従うことを強要される他律的な修行として始まるからです。
後世に伝えられるすぐれた禅僧は、そうした他律的な修行を自発的・自律的なものとして内面化して、さらにより厳しい修行を自分に課してきました。
私の雲水時代は、「戒律」を守り修行することの意義を自らに問い、禅僧としての自身の生き方として内面化するまでには至らず、表面的に集団の修行の規律に従うことに止まっていました。
20代の学生の時から参禅し、見性体験もありましたから、私にとっての禅は、自分自身の純粋経験であり参禅であって、戒律について真剣に考えたことはありませんでした。
ですから、専門道場を出て寺の住職となり、他律的な修行から解放された時、気ままに生きてしまう自分自身がいたわけです。
つづく
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09:51
2007年10月07日
授戒
向い和尚から「授戒」の解説を頂きましたので紹介します。
伝統的仏教においては、一般市民の方も仏弟子と成るためには師より授戒をうけることになります。
授戒とは、釈尊のみ教え、私共が守るべき心のいましめ、戒法を、戒師より授かり、その法力によって本来の自己を見出し心豊かに生活することです。
授戒会では「帰戒を求めんと欲せば、まずまさに懺悔(さんげ)すべし・・・」より始まります。
1,まず今までの悪行を懺悔します。
懺悔文(さんげもん)
《我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔》
(がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆうむしとんじんち じゅうしんくいししょしう いっさいがこんかいさんげ)
【我れ昔より造りし所の諸々の悪業は 皆な無始の貪瞋癡に由る 身口意よりの生ずる 所なり 一切我れ今皆懺悔したてまつる】
2,懺悔によって心が清浄になったところで、仏・法・僧の三宝(さんぼう)に帰依することを誓う三帰依を唱えます。
帰依文
《南無帰依佛 南無帰依法 南無帰依僧》
佛に帰依したてまつる 法に帰依したてまつる 僧に帰依したてまつる
3,次に「五戒(ごかい)」を授かります。
一、 生きものを殺さないこと。
二、 盗みをはたらかないこと。
三、 邪淫をはたらかないこと。
四、 うそをつかないこと。
五、 酒を飲まないこと。
という五つの戒律(戒め)をまもることです。
以上の「三帰五戒」を授かると、正式な仏教徒になるのです。
授戒会ではこの戒を「よく保つ-」と大きな声で誓った人に、仏弟子の資格を持った者 として、その証(あかし)として戒名と血脈を授与します。
戒名は本来、正式の仏教徒に授けられる名前、つまり「仏になる(煩悩をふり払い、執 着を捨て、本当に安らかな悟りに至る)」ことをめざし、教えに従って生きていく覚悟 をあらわす名前です。
これからもよろしくお願いします
↓
伝統的仏教においては、一般市民の方も仏弟子と成るためには師より授戒をうけることになります。
授戒とは、釈尊のみ教え、私共が守るべき心のいましめ、戒法を、戒師より授かり、その法力によって本来の自己を見出し心豊かに生活することです。
授戒会では「帰戒を求めんと欲せば、まずまさに懺悔(さんげ)すべし・・・」より始まります。
1,まず今までの悪行を懺悔します。
懺悔文(さんげもん)
《我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔》
(がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆうむしとんじんち じゅうしんくいししょしう いっさいがこんかいさんげ)
【我れ昔より造りし所の諸々の悪業は 皆な無始の貪瞋癡に由る 身口意よりの生ずる 所なり 一切我れ今皆懺悔したてまつる】
2,懺悔によって心が清浄になったところで、仏・法・僧の三宝(さんぼう)に帰依することを誓う三帰依を唱えます。
帰依文
《南無帰依佛 南無帰依法 南無帰依僧》
佛に帰依したてまつる 法に帰依したてまつる 僧に帰依したてまつる
3,次に「五戒(ごかい)」を授かります。
一、 生きものを殺さないこと。
二、 盗みをはたらかないこと。
三、 邪淫をはたらかないこと。
四、 うそをつかないこと。
五、 酒を飲まないこと。
という五つの戒律(戒め)をまもることです。
以上の「三帰五戒」を授かると、正式な仏教徒になるのです。
授戒会ではこの戒を「よく保つ-」と大きな声で誓った人に、仏弟子の資格を持った者 として、その証(あかし)として戒名と血脈を授与します。
戒名は本来、正式の仏教徒に授けられる名前、つまり「仏になる(煩悩をふり払い、執 着を捨て、本当に安らかな悟りに至る)」ことをめざし、教えに従って生きていく覚悟 をあらわす名前です。
これからもよろしくお願いします
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10:51
2007年10月05日
生活の中での修業
沖縄でニ日間にわたり、講演と坐禅指導をしてくれた向和尚。
先日、向さんいメールで質問をしました。
今日はその内容を紹介します。
「今日は簡単な質問をさせてください。
もし僕たち一般の市民が向さんの弟子だとしたら、そんな僕たちに、どのような意識、どのような覚悟、どのような生活態度を求めますか。
具体的にどんなことを習慣にして生きていけばいいでしょうか。」
この質問は、私には本質的な問いで簡単ではありません。
まず自分自身が、今までの気ままな生活を改め、仏教・禅のプロとして「どのような意識、どのような覚悟、どのような生活態度」で生きていくか、明確にし覚悟したいと思っているところですから。
今の時代に即した新しい精神世界「サンガ」を創造するとしても、仏教の原点を離れては外道に陥ることになります。
私自身の課題も、自分の都合の良いように仏教・禅を解釈して気ままに生きているところを打破し、より困難な道を目指すことだろうと感じています。
究極の境地は、一切の倫理・価値観を超えた「非思量」の世界にある。
その境地から生き、またその純粋経験の境地に徹底するためにも、「正思惟(正しい考え)」によって自らの倫理的な生き方を確立しなければならない。
その原点・基礎となるのは、やはり鑑真和上に代表される仏教徒なるための「授戒」であろうとおもいます。
明日はその「授戒」について説明します。
これからも応援よろしくお願いします
↓
先日、向さんいメールで質問をしました。
今日はその内容を紹介します。
「今日は簡単な質問をさせてください。
もし僕たち一般の市民が向さんの弟子だとしたら、そんな僕たちに、どのような意識、どのような覚悟、どのような生活態度を求めますか。
具体的にどんなことを習慣にして生きていけばいいでしょうか。」
この質問は、私には本質的な問いで簡単ではありません。
まず自分自身が、今までの気ままな生活を改め、仏教・禅のプロとして「どのような意識、どのような覚悟、どのような生活態度」で生きていくか、明確にし覚悟したいと思っているところですから。
今の時代に即した新しい精神世界「サンガ」を創造するとしても、仏教の原点を離れては外道に陥ることになります。
私自身の課題も、自分の都合の良いように仏教・禅を解釈して気ままに生きているところを打破し、より困難な道を目指すことだろうと感じています。
究極の境地は、一切の倫理・価値観を超えた「非思量」の世界にある。
その境地から生き、またその純粋経験の境地に徹底するためにも、「正思惟(正しい考え)」によって自らの倫理的な生き方を確立しなければならない。
その原点・基礎となるのは、やはり鑑真和上に代表される仏教徒なるための「授戒」であろうとおもいます。
明日はその「授戒」について説明します。
これからも応援よろしくお願いします
↓
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2007年10月04日
未来の地球
実際にアセンションが起きて、もしみんなが悟ったらどんな世界が生まれるのか。
これは考えただけでワクワクしますね。
悟るとは個々が全体意識を持つということです。
みんなが地球感覚を持って生きるということです。
もしそうなったら、まっさきに無くなる職業があります。
それは軍隊です。
世界中でおびただしい軍事費が使われていますが、その3日分で65億の人間の一年間の衣食住がまかなえる計算だそうです。
それを人民の生活や福祉に使ったら、飢えに苦しむ人がいなくなるどころか、地上に生きる人間全員が豊かな生活をすることになるでしょう。
もしかしたら、お金という道具そのものがなくなるかもしれません。
さらには警察も要らなくなります。
世の中には悪い事をする人がいる、この世は油断ならないという観念が消えるので、セキリュティーに使われていた労力が全て消え去ります。
みんなが愛する能力を持つので、愛されるためにやっていたことがいらなくなります。
みんなが心を開いて互いを認め合っているのでストレスも無く、病気も激変することでしょう。
まだまだたくさんあります。
あなたなりの予想を考えてみてくださいね。
課題もたくさん出てくることでしょう。
でも今のレベルの僕たちが不安を感じるような課題は、すべて簡単にクリアしてしまうと思います。
だって、みんなが悟っているんですから。
これからもよろしくお願いします
↓
これは考えただけでワクワクしますね。
悟るとは個々が全体意識を持つということです。
みんなが地球感覚を持って生きるということです。
もしそうなったら、まっさきに無くなる職業があります。
それは軍隊です。
世界中でおびただしい軍事費が使われていますが、その3日分で65億の人間の一年間の衣食住がまかなえる計算だそうです。
それを人民の生活や福祉に使ったら、飢えに苦しむ人がいなくなるどころか、地上に生きる人間全員が豊かな生活をすることになるでしょう。
もしかしたら、お金という道具そのものがなくなるかもしれません。
さらには警察も要らなくなります。
世の中には悪い事をする人がいる、この世は油断ならないという観念が消えるので、セキリュティーに使われていた労力が全て消え去ります。
みんなが愛する能力を持つので、愛されるためにやっていたことがいらなくなります。
みんなが心を開いて互いを認め合っているのでストレスも無く、病気も激変することでしょう。
まだまだたくさんあります。
あなたなりの予想を考えてみてくださいね。
課題もたくさん出てくることでしょう。
でも今のレベルの僕たちが不安を感じるような課題は、すべて簡単にクリアしてしまうと思います。
だって、みんなが悟っているんですから。
これからもよろしくお願いします
↓
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09:37
2007年10月03日
危機
さて、この地球的規模の危機ですが・・・
僕は危機というものを悪く考えていません。
我が人生を振り返ってみても、自分が大きく飛躍したのは危機的状況に追い込まれたときだったからです。
僕らは基本的に変化が嫌いで、なるべく現状を維持したいと考えています。
たいていの困難は、やり方を工夫することで乗り越えてしまいます。
でも従来のやり方ではどうしようもなくなってしまうのが「危機」と呼ばれる状態です。
あの手この手を試してみても、万策尽きたという状態です。
その時初めて、従来のやり方を手放し、全く新しい何かにチャレンジしていく覚悟が生まれます。
そこに活路が開け、今まで以上の発展が始まっていくのです。
人生にはそんなことが幾たびとなくありました。
それは地球規模でも同じことだと思います。
僕たちが従来の生き方を改めるためのチャンスが訪れています。
危機とは危険であると共に機会(チャンス)でもあるのです。
このチャンスをものにしたら、僕たちはどうなるというのでしょう。
それは10月1日の記事にも触れましたが、ズバリみんなで悟るということです。
昔はごく一部の突出した魂だけが到達した涅槃の境地に、みんなで行き着くということです。
そうなるとどうなるか・・・
それは想像を超えています。
誰ひとり想像する事ができない新しい文化が花開くことでしょう。
それは、不信や暴力に慣れてしまった魂には物足りなく感じる世界かもしれません。
でも実際には物足りないどころか、あふれ変えるような喜びに瞬間瞬間包まれている光の世界です。
もし僕たち皆が悟ったらどんな世界になるのか、次回はそのことを考えてみたいと思います。
これからもよろしくお願いします
↓
僕は危機というものを悪く考えていません。
我が人生を振り返ってみても、自分が大きく飛躍したのは危機的状況に追い込まれたときだったからです。
僕らは基本的に変化が嫌いで、なるべく現状を維持したいと考えています。
たいていの困難は、やり方を工夫することで乗り越えてしまいます。
でも従来のやり方ではどうしようもなくなってしまうのが「危機」と呼ばれる状態です。
あの手この手を試してみても、万策尽きたという状態です。
その時初めて、従来のやり方を手放し、全く新しい何かにチャレンジしていく覚悟が生まれます。
そこに活路が開け、今まで以上の発展が始まっていくのです。
人生にはそんなことが幾たびとなくありました。
それは地球規模でも同じことだと思います。
僕たちが従来の生き方を改めるためのチャンスが訪れています。
危機とは危険であると共に機会(チャンス)でもあるのです。
このチャンスをものにしたら、僕たちはどうなるというのでしょう。
それは10月1日の記事にも触れましたが、ズバリみんなで悟るということです。
昔はごく一部の突出した魂だけが到達した涅槃の境地に、みんなで行き着くということです。
そうなるとどうなるか・・・
それは想像を超えています。
誰ひとり想像する事ができない新しい文化が花開くことでしょう。
それは、不信や暴力に慣れてしまった魂には物足りなく感じる世界かもしれません。
でも実際には物足りないどころか、あふれ変えるような喜びに瞬間瞬間包まれている光の世界です。
もし僕たち皆が悟ったらどんな世界になるのか、次回はそのことを考えてみたいと思います。
これからもよろしくお願いします
↓
Posted by Blog Ranking at
09:38
2007年10月02日
後戻りできない
手に入れたものはあたりまえになっていて、いちいち感謝しませんが、今の僕たちの生活は昔の人から見たら夢のようなものではないでしょうか。
暑さや寒さをコントロールして、食べ物は多くの種類から選べて、離れていても意思の疎通が可能で、どこへだって一日あれば着いてしまいます。
多くの作業は機械が変わりにやってくれます。
まだまだ数え上げたらきりがないくらい、毎日の生活は快適になりました。
今、環境問題が深刻化し、CO2の削減などが叫ばれています。
でもだからといって、一旦手にした快適な生活を昔に退化させることはできるでしょうか。
車を使わず、冷房の変わりにウチワを持ち、自分で田畑を耕して自給自足の生活をする・・・そんなことができるでしょうか。
一時的にはそんな生き方を始めてみても、多くの人はまた今のようなハイテク生活に戻りたいと願うのではないでしょうか。
しかしこのハイテク生活は、世界中の全ての人たちが享受しているわけではありません。
というより、わずか一握りの国だけがそれを手にしているのです。
この先インドや中国などの大国を筆頭に、多くの国がこの快適な生活を目指して経済を活発化させ、まずます自然環境を破壊してくることでしょう。
だからと言って、自分達が手にしたこの生活を、彼らに追い求めるなとは言えないはずです。
そうなると我々が目指すべきは、生活水準を落とすことなく、しかも世界中の人たちの生活レベルを同じくらいにまで引き上げ、さらにはCO2の削減などやるべきことをやっていく技術だと思います。
欲張りすぎなければ十分に可能なのではないでしょうか。
富と知恵は無限に存在します。
その使い方を正確なものにすれば、今抱えている地球規模の問題も簡単にクリアしてしまう、人間の力はそれほどに大きなものだということを思い出したいですね。
まずは意識改革です。
これからもよろしくお願いします
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暑さや寒さをコントロールして、食べ物は多くの種類から選べて、離れていても意思の疎通が可能で、どこへだって一日あれば着いてしまいます。
多くの作業は機械が変わりにやってくれます。
まだまだ数え上げたらきりがないくらい、毎日の生活は快適になりました。
今、環境問題が深刻化し、CO2の削減などが叫ばれています。
でもだからといって、一旦手にした快適な生活を昔に退化させることはできるでしょうか。
車を使わず、冷房の変わりにウチワを持ち、自分で田畑を耕して自給自足の生活をする・・・そんなことができるでしょうか。
一時的にはそんな生き方を始めてみても、多くの人はまた今のようなハイテク生活に戻りたいと願うのではないでしょうか。
しかしこのハイテク生活は、世界中の全ての人たちが享受しているわけではありません。
というより、わずか一握りの国だけがそれを手にしているのです。
この先インドや中国などの大国を筆頭に、多くの国がこの快適な生活を目指して経済を活発化させ、まずます自然環境を破壊してくることでしょう。
だからと言って、自分達が手にしたこの生活を、彼らに追い求めるなとは言えないはずです。
そうなると我々が目指すべきは、生活水準を落とすことなく、しかも世界中の人たちの生活レベルを同じくらいにまで引き上げ、さらにはCO2の削減などやるべきことをやっていく技術だと思います。
欲張りすぎなければ十分に可能なのではないでしょうか。
富と知恵は無限に存在します。
その使い方を正確なものにすれば、今抱えている地球規模の問題も簡単にクリアしてしまう、人間の力はそれほどに大きなものだということを思い出したいですね。
まずは意識改革です。
これからもよろしくお願いします
↓
Posted by Blog Ranking at
10:18
2007年10月01日
目覚まし時計
本を読んだり、優れた映画を見たりすると、人間ってなんて凄い生き物なんだろうって思ってしまいます。
深く考え、表現し、人を感動させるのだから、人間の知性の深みは、とうてい他の動物には真似できるものではありません。
さらにはこの科学技術。
人間がやってきたこと、人間が成し遂げたことを考えると、ますます人間の凄さを思わずにいられません。
そんなに優れた人間が、自ら作り出した技術によって自らを滅ぼそうとしているというのは、なんとも矛盾した話です。
地球温暖化による環境破壊はそのひとつで、破壊の規模も、破壊がもたらす連鎖反応も正確には把握できていないまま、その破壊の速度だけは増すばかりです。
かたや飛びぬけた頭脳を持つ人間が、集団で破滅を招くような、あまりにも愚かな行為を続ける背景には何があるのでしょう。
その最も大きな原因は、人間は誰もが幸せになりたいと思っていて、その幸せを得るために自分の外側にあるものを、自分のものにしようと考えるところにあります。
人間特有の心理的な欲求を、物理的に満たそうとする間違いが、来るところまで来てしまったのだと思います。
今僕たちに必要なのは、どのようにして環境破壊を止めるかという課題と同時に、自分達の生き方の何が間違っていたのかを問い質すことだと思います。
その問いは、極めて基本的な問いかけになります。
生きる目的
時間(過去・未来)の理解
心理的欲求の正体
生命の実像
やはり、ある種の「悟り」のような感覚を得ることかもしれません。
僕は思っています。
この地球規模の危機的状況は、多くの人達を目覚めさせる大きな目覚まし時計だと。
次回はさらにこの問題を考えてみたいと思います。
これからもよろしくお願いします
↓
深く考え、表現し、人を感動させるのだから、人間の知性の深みは、とうてい他の動物には真似できるものではありません。
さらにはこの科学技術。
人間がやってきたこと、人間が成し遂げたことを考えると、ますます人間の凄さを思わずにいられません。
そんなに優れた人間が、自ら作り出した技術によって自らを滅ぼそうとしているというのは、なんとも矛盾した話です。
地球温暖化による環境破壊はそのひとつで、破壊の規模も、破壊がもたらす連鎖反応も正確には把握できていないまま、その破壊の速度だけは増すばかりです。
かたや飛びぬけた頭脳を持つ人間が、集団で破滅を招くような、あまりにも愚かな行為を続ける背景には何があるのでしょう。
その最も大きな原因は、人間は誰もが幸せになりたいと思っていて、その幸せを得るために自分の外側にあるものを、自分のものにしようと考えるところにあります。
人間特有の心理的な欲求を、物理的に満たそうとする間違いが、来るところまで来てしまったのだと思います。
今僕たちに必要なのは、どのようにして環境破壊を止めるかという課題と同時に、自分達の生き方の何が間違っていたのかを問い質すことだと思います。
その問いは、極めて基本的な問いかけになります。
生きる目的
時間(過去・未来)の理解
心理的欲求の正体
生命の実像
やはり、ある種の「悟り」のような感覚を得ることかもしれません。
僕は思っています。
この地球規模の危機的状況は、多くの人達を目覚めさせる大きな目覚まし時計だと。
次回はさらにこの問題を考えてみたいと思います。
これからもよろしくお願いします
↓
Posted by Blog Ranking at
09:20