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2008年01月31日

小さな碑

「時間もなければ空間もない。この宇宙は全部自分という存在の表れだから」



「Aさんは何故そう思ったのですか」

玄考さんは、僧衣の袖をちょっと持ち上げるような姿勢でぽつりと言いました。

目の前の大銀杏の木は弘法大師が植えたという伝説があり、そのすぐ横には何やら古ぼけた小さな碑がひっそりと佇んでいます。



吉野の山々に囲まれた村全体が静寂に包まれていました。

時折さえずる小鳥の声がとても大きく響いてきます。



玄考さんが話に興味を持ってくれたことが嬉しくて、いつも話したくて仕方のないことを、ここぞとばかりに話し始めました。


「万物は一つなるものからできていて、僕ら一人一人の中心には、名前を付けようのない偉大な存在が鎮座していると思うんだ」


これぞ真実と思うことを、いろんな表現でしゃべり続けました。

伝統仏教を学ぶ若者が、どのような反応を見せるのか楽しみでした。



ひととおりAの演説が終わると、玄考さんは大木の隣にひっそりとたたずむ小さな碑の前で膝を折りました。

「Aさん、この文字知ってはります?」


手のひらを二つ並べたくらいの小さな石碑には、何やら梵字が書かれています。


「いや、知りません」



「これは阿字観といって、お大師様(空海)が宇宙を感得されたときに瞑想の対象としていた梵字なんです」






応援よろしくお願いします

  
  


Posted by Blog Ranking at 08:48

2008年01月28日

奥の院 2

特に2人の僧と仲良くなり、その後も親交が続きました。


一人は玄考さんと言って、高野山奥の院の僧侶でした。

当時20代後半の若者だったと思います。



高野山には多くの寺院がありますが、その中でも奥の院は中心的存在で、多くの僧たちがおつとめと修行に励んでいました。


僕は誰と出会ってもすぐに、自分の体験から気づいたこと、自分の心の中で揺るぎなく流れる真実について語り始めます。


そのようにして相手の反応を見ながら、どこまで喋っていいものか様子をうかがいます。



もし相手が理解してくれたりしたら、話はどんどん深まっていきます。


ところが同じように精神世界を学ぶ人たちの中で、本当に全てをわかりあえる仲間との出会いは稀です。



だからそのような出会いはいつまでも忘れる事がないのです。


その一人が玄考さんでした。




僕は会ってすぐに彼に言いました。

目の前には、初夏の日差しを浴びて、緑の葉をいっぱいにつけた、大銀杏の木がそびえ立っていました。



「本当はすべては一つにつながっていて、僕たちは全員、本質的に同じものなんだよね」


隣に立っていた彼は、顔だけを僕のほうにむけて、じっとこちらを見ていました。



僕はその視線を横に感じながら話を進めました。






今日も応援よろしくお願いします。

  
  


Posted by Blog Ranking at 09:06

2008年01月27日

高野山奥の院

仏教は本来、人々を真理に誘なうための教えで、それを自ら追求し一般衆生に説いて聞かせるのが僧侶の役目です。


ところが僕たちも知っているように、お坊さんが葬式やお盆の専門家になってしまって、本来の目的を十分に果たさなくなってしまいました。

この原因は彼ら自身にもありますが、この国の仕組みにもあるように思います。


檀家制度です。


そもそもこの制度は徳川政権時代、キリシタンの排除を目的に「宗門改め」というものがあり、すべての国民はその地域の寺に所属することで、自分の信仰を明らかにしたのです。

このことについてはまた後日触れますが、とにかくその制度が仏教という本質を変えてしまったと思います。


でもそんな中にあって、必ず本来の役目を純粋に追及している人たちがいるはずだと信じていました。



きっと見えないだけでたくさんいるのだと思います。




天河にいるころ、高野山のお坊さんたちがよくお参りに来てくれました。


天河は空海が青年時代に修業を積んだ場所といういわれがあるので、来ていたようです。



その何人かと親しくなりました。


高野山奥の院というところで、空海に最も近いところで修業をしている若き僧たちでした。






多くの人の目に届きますように
今日も応援ボタンよろしくお願いします。

  
  


Posted by Blog Ranking at 11:31

2008年01月26日

そして第二部へ

向和尚と出会ったとき、和尚が言いました。


「人生は、いつ、誰と出会うかによって決定される」


それを聞いたときに思いました。

「といういことは、今目の前にいるこの和尚との出会いが、僕の人生を変える可能性もあるのか」



そしてその後の人生は、向和尚とのパートナーシップを強める方向に発展していきました。



人生、出会うべき人には必ず出会う。

しかも一瞬早からず、一瞬遅からず。


ただし内に求むる心なくば、縁は生ぜず。




きっと僕は向和尚との縁を直感し、深い信頼関係を築きたいと求めたのだと思います。

だからこのような関係性を築くことができました。



いや、もしかしたら順序が逆かもしれません。


出会ってから求めたのではなく、求めたから出会ったのです。




本物の禅僧に出会いたい。

純粋に悟りを受け継いだ人に出会いたい。



その想いが縁を作り出したのだと思います。



向和尚は禅の世界のエリートですが、今考えてみれば、一般の僕が、そのような選りすぐりの禅僧に巡り合い、深い信頼関係で結ばれることは、奇跡に近いことだったと思います。



想いは現実化する。

それは、まぎれもない事実だと思います。



そしてここにきて、もうひとりのキーマンに出会いました。


この出会いも、僕が強く願ったからであり、同時に相手も強く願った結果です。




これで駒がそろいました。

かんながら第二部の始まりです。



これからの展開は、序章以上に、さまざまな奇跡を起こしていくことになると思います。


現在進行形でこれからの経緯を見守っていてください。






旅の途中で手にしたものがあるんだ

誰も知らない奇跡を見せてあげよう

やっと出会えたね たどり着いたんだね

今日からいつも 君を守ってあげるよ

この人生の真ん中で


(6200の夜を超えて)





これからも応援よろしくお願いします

  






  


Posted by Blog Ranking at 09:25

2008年01月23日

物語について

かんながらの物語、たくさんの人が読んでくれて嬉しいです。

こんな稚拙な文章にもかかわらず、中にはすごく感動したと言ってくれる人もいて、これはもう書いた者冥利につきると思います。



実話を基にして書いたというのは本当ですが、言うまでもなく半分はフィクションです。

有名人にも登場してもらうことで、どこまでが事実でどこからがフィクションなのかわからないようになれば面白いと思いました。


しかし、この物語で伝えたいことは、各所に繰り広げられる不思議なエピソードそのものではなく、その背景に流れている存在の真実です。


その部分だけを抜き出して書くと味気なくなってしまうので、このような物語形式でよかったと思います。



でも僕自身が読み返してみて思うのは、そこに登場するAという主人公が、本当はもっとカッコ悪く、いろんな人間的な欠点を持ち合わせていたのに、なんとなくヒーローになってしまっているなと、これは書き手の防衛本能でしょうか。

そんな実体験から、ほとんどの自叙伝は差し引いて読まないといけないと思いました。


ましてや第三者が書いた人物伝などは、生身の人物像とはかけ離れている場合が多いわけで、実際にそんな人が生きていて、自分とはずいぶん違うななんて、自分を卑下しなくてもいいということです。


そのうち、主人公のAがどれくらいみっともない人間か、全部赤裸々に紹介したいと思います。

本人は嫌がると思いますが(笑)






これからも応援よろしくお願いします




  


Posted by Blog Ranking at 11:00

2008年01月21日

個の時代

バグワンについてどのように書こうか考えたのですが、うっかりすると特定の個人を神格化してしまうと思いました。

大切なポイントは、彼自身というよりも、彼が説いた真理にあるのに、真理は無形でつかみどころがないので、つい僕たちは個人崇拝に偏ってしまうのだと思います。



多くの宗教の祖師たちはその危険性を知っていて、仏陀もモハメッドも老子も、そのあたりを再三にわたって忠告していた痕跡がうかがえます。


だから仏像を造ることは長い間禁止されていたし、イスラム教ではいまだに偶像崇拝を禁じているようで、バーミアン大仏を破壊した一部の原理主義者達の暴挙は記憶に新しいところです。



祖師たちが弟子のためによかれと思って言った言葉が、その言葉自体をかたくなに守ろうとする態度によって、暴力的な結果を生むことも少なくありません。



人類がもう少し真理に対して大人になって、科学的な検証と、論理的な整合性を繰り返しながら、知的にも感覚的にも納得がいく結論を模索することは難しいのでしょうか。

数千年前の覚者の言葉に頼るのではなく、今の人類の英知によって、人間存在の真理を究明することはできないのでしょうか。

真理のために、仏陀やキリストやモハメッドの存在が、いつまで必要なのでしょうか。



時代は大きく変わっていると思います。

なぜ僕たちは、違う時代の、違う国の、違う文化の聖人達の言葉に縛られ続けるのか・・・


それはきっと・・・自信がないんだと思います。




21世紀には21世紀の宗教が必要だと考えています。

そしてそれは、歴史的偉人や宗教的カリスマを崇めるのではなく、「個」を最も大切にしたものであるべきだと思います。

あらゆる権威をわれわれ一人一人である「個」に帰結させるような何かです。





この情報が多くの人に届きますように。

ご協力よろしくお願いします。





  


Posted by Blog Ranking at 14:14

2008年01月20日

神の怒り

欲望にもいろいろありますが、一番手に負えないのが性に関するものじゃないでしょうか。

そして一番厳しくチェックするのもそこのような気がします。



たとえば聖者といわれる人がいて、その人が美食家で、おいしい料理を堪能しているとしても、人はそれほど大きな抵抗を感じません。

それが同じ美食家でも女性を食べる美食家で、奇麗な女性を堪能していたら、それは聖者の名をかたる不届き者ということになるでしょう。



僕たちは食欲には寛大ですが、性欲には厳しい傾向にあります。

それはおそらく、自分の中でその衝動を抑圧してきているので、その反動で相手を判断したり責めたりするのだと思います。



悟った高僧は性欲が消えるのでしょうか。


どうやら、そうではなさそうです。


それはそれ、人間の自然な欲求として最後まで残るようです。


もし異性に興味を示さない宗教家がいたとしたら、同性に興味があるか、よほどの力で自分を押さえつけているのでしょう。




そもそも性への欲求を無くすべきだという考えそのものが、不自然で不可能な欲求のように思うのです。

そこにはすでに、性というものに対する判断が入りこんでいます。



歴史的に見ても、僧院や修道院などで、どれほど多くの人たちが神の名のもとに苦しんできたことでしょう。

神の怒りをかわないように、自分を抑制してきたのです。



神は人間が自然な欲求を持つことを快しとしなかったのでしょうか。

ではなぜわざわざそのように人間を作り出しておいて、それを禁じるのでしょうか。


いえいえ、それらは全部人間が考えたことで、神は何も関知していません。


もし人が何かの過ちを犯して神が怒るとしたら、その神はずいぶんと心の狭いお方だと思います。

その現実に対して神がどのような自分を選ぶのか、もし神が不幸せな怒りという体験を選ぶのなら、勝手に怒らせておけばいいと思います。


僕が知る神は、限りなくやさしく、僕たちの過ち(実際にはそんなものはそんざいしませんが)も忍耐強く見守ってくれています。



何度か僕なりに神を感じた瞬間がありましたが、それはそれは優しい波動でした。


決して怒らないもの。

決して罰しないもの。



それが神だと思います。





この情報が多くの人に届きますように。

ご協力よろしくお願いします。





  


Posted by Blog Ranking at 10:59

2008年01月19日

世界でひとつだけの花(ブッダ)

古今東西、さまざまなブッダが登場しましたが、僕たちに必要なのは、彼らをあがめることではなく、僕たち自身が一人のブッダになることだと思います。


しかし、ブッダとはどのような存在なのかというイメージが邪魔をしている気がします。


ブッダとは、清貧にして、おだやかな微笑みをたたえ、性などの欲望を超越し、いつでもどんな時にでも、誰に対しても慈愛をかたむける、そんな美しい聖者だというイメージです。

実際には、ブッダとはこいういう性質だという特定なものはなく、一人一人が独自の花開き方をするようなのです。


したがって、ブッダ達の個性はてんでばらばらです。


ブッダとは真実の自分になることなので、そうなればなるほど独自の個性が発揮されるのだと思います。



釈迦のようになろう、キリストのようになろうとしても無理な話です。

この宇宙は何一つ繰り返さないので、現象はたった一度きりなのです。


あなたや僕という現象も一度きりで、それは釈迦と同じだけ貴重で尊い存在だと思います。



僕たちは、あるがままの自分にしかなれません。

そしてそれでいいんです。


いいとこ半分、悪いとこ半分

どっちも半分 誰にでも半分


みんなオアイコです。





この情報が多くの人に届きますように。

ご協力よろしくお願いします。





  


Posted by Blog Ranking at 11:01

2008年01月18日

続・続・欲望について

さてずいぶん遠回りをしてしまいましたが、僕たちが聖なるものに行きつくためには欲望を無くすことが必要ですが、それは自らの意志でできることではないのです。

だから精神の道を歩むために、家族や財産や仕事を捨てるというのは、目的は正しくても、手段として間違っています。



僕たちは何も捨てなくていいのです。

そもそもそんなことはできないのですから。


この勘違いが、多くの求道者達を長きにわたって惑わせてきたように思います。



そして何も持たずに、質素な小屋に住み、着のみ着のままで粗末な食事を繰り返すのが、本当の聖者のあるべき姿だと思っています。

でもその暮らしぶりや、活動の内容と、その人の意識の達成度はなんの関係もありません。


貧しい暮らしをしながら、その日暮らしをしている人が無欲で悟った人ではなく、豪華で優雅な生活をしている人が、欲にまみれているわけではありません。


そのような外観からの判断は、まったく表面的なものでしかないのです。



実際、貧しいより豊かなほうがずっといいと思います。

坐禅をするのも、固い石の上より、ふかふかの心地いい布団の上のほうがずっと快適です。



布団が手に入るのに、わざわざ石の上で坐ろうとする態度こそが、不自然な態度であり、それが悟りへの道ではないということです。



したがって、いまだ道の途上にある僕たちの生活態度として一番的を射ているのは、何でも手に入るものは手に入れながらも、そこに執着しないという生き方ではないかと考えています。




この記事は、真剣に道を求めようとしている人に書いています。

形に惑わされて遠回りした男からの助言です。







この情報が多くの人に届きますように。

ご協力よろしくお願いします。






  


Posted by Blog Ranking at 09:02

2008年01月17日

続・欲望について

欲望については、少し込み入った部分があるので、さまざまな観点から話しをさせてください。


無欲という言葉がありますが、文字通り理解しようとすると誤解がついてまわります。



たとえば、悟りに向かうために欲望を否定して、欲望を捨てようとしても、それはまた新しい欲望です。

物質主義の世界に飽き飽きとして、すべてを捨ててヒッピーになった人を見てきましたが(僕も似たような経験があります)、それは単に物質主義の反動であって、対極に動いただけで、あいかわらず同じゲームの途上にあります。


無欲とは欲望の否定ではなく、欲望の不在なのです。



財産を捨て、家族を捨て、山にこもって修業を始めれば、それを見た人は、「あの人は欲望を捨てた」と思うかもしれませんが、実際には欲望の対象が富や名誉から神や悟りに変わっただけの話です。


少しはましかもしれませんが、思われているほどの違いはありません。



無欲というのは、欲を捨てようとすることではなく、求めるという質そのものが不毛だと理解することです。


そもそも欲望は落とすことはできません。

落そうとすれば、その反作用でしがみついてくるのがこの世の定めです。



落とすのではなく理解するのです。

欲望とは決して満たされることがないということ、どこにも行きつかないということ、その不毛性を理解することです。




理解すれば自然に落ちます。



無欲とは、この世の富や名誉などの馬鹿馬鹿しさに目覚めることではありません。

なぜなら、そこに気づいたとしても、今度は精神性や、神の世界や、悟りの世界を求めだすからです。


人生が無意味だからと言って(実際それはそのとおりですが)、死後の世界にあこがれたり、アセンションにあこがれたり、涅槃(悟り)にあこがれたりしても、結局は同じ事です。



その「求める」という質が変容したとき、そこに永遠の命「いまここ」があるのです。





ちょっとややこしい表現になってしまいましたが、とても重要なポイントだと思います。

また違う観点からお話します。





この情報が多くの人に届きますように。

ご協力よろしくお願いします。






  


Posted by Blog Ranking at 20:08

2008年01月16日

欲望について

バグワンについて語る前に、いくつか基本を整理しておきましょう。



悟りに向かう道というと、多くの人は「無欲」になることが大切だと考えます。

そしてそれは、そのとうりなのです。


ニューエイジや新興宗教などは、簡単な「行」をとおして人を導こうとしますが、残念ながらそのようなショートカットはかえって遠回りになります。


ましてや現世利益の宗教というのは、本来ありえません。

この世の成功など、泡ぶくのようなものだからです。



それではあの世の成功はどうでしょうか。

神仏を拝み、身を正し、欲を捨て、戒律にそった生き方をすることで、永遠の浄土や天の王国に入ることを目指す。


この世の成功を求める人が強欲だとしたら、あの世の成功を求める人はもっと強欲です。

だって永遠の幸せを下さいと言うのですから。



お金を求めるのも、悟りを求めるのも、神を求めるのも、求めるという点において同じレベルの欲望です。


真理は「求めないこと」から始まる道です。


というより、100%求めなくなった瞬間、すでに真理にたどり着いています。

最初の一歩は最後の一歩なのです。


求めなくなって初めて「いまここ」のなんたるかを知ることができます。

求めなくなって初めて、未来が消え、時間が消え、存在が永遠の時間軸に再誕生するのです。


したがって、求道心というのは、道を求めている限り真理にはたどりつかないということを知るためにあるのです。




皮肉なことに、この求道心がなければ何も始まらないときています。

真理はいつも大いなるパラドックス(逆説)の中に存在します。





つづく




この情報が多くの人に届きますように。
これからも応援よろしくお願いします。





  


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2008年01月14日

欲望と執着

性に対するアプローチだけでなく、彼は欲望に対してもユニークな態度をとっていました。

好きなものを手にいれ、好きなものを食べ、好きなことをすることに、何の問題もないと言うのです。



簡単に彼のメッセージを要約すると、何を手に入れてもいいし、何をしてもいいが、それを自覚的にやり、それに執着するなということです。



十分な自覚を持ってすれば、いわゆる悪事は行うことが困難です。

無自覚だから良心を裏切ってしまうのです。



そして執着心は問題や苦しみを引き起こします。

なぜならこの世の現象は、すべて諸行無常、何事も移り変わっていくからです。



それなのに、このままの状態でいてほしいとしがみつくのは宇宙の理に反しています。

理に反すれば、そこに苦しみが生まれるのです。



バグワン自身も、自分が欲しいと思ったものや、好きなものは、素直にそのまま伝え、行動していました。




そうそう、彼は自動車を運転するのが好きでした。

広大な敷地を嬉しそうに車で走っている映像を見たことがあります。


しかもロールスロスが大好きでした。


彼を慕う世界中の人たちが、彼にロールスロイスを贈ったので、なんと90台も所有していたのです。



そのような姿は、ニセ聖者として多くの批判を集めます。



でもそこには何の執着もありません。

彼はただ楽しんでいたのです。



この話は、僕たちがより深く精神性を学ぶ上で役に立つと思います。

僕たちには悟りや聖者に対して、すでに先入観があり、それは自分の成長の道をも的外れにしてしまう可能性があるからです。


次回はそのことについて述べてみます。






この情報が多くの人に届きますように。
これからも応援よろしくお願いします。







  


Posted by Blog Ranking at 09:50

2008年01月11日

性について

僕らは自分が自覚している以上に、性に対して関心を持っています。

でもそれはあまり表に出てきません。


性はとても身近なことで、僕たちはみな両親の性交渉によって生まれていますし、性は生きている基盤でもあります。


でも「性」というテーマは、とてもデリケートなものです。


たとえば僕がここで「性」について赤裸々に語れば、それは一部の人たちに大きな抵抗を持たせてしまうでしょう。


大切なことだからと言って、街頭に立って「性」について演説している人を見たこともありません。



それは暗黙のタブーなのです。



だからこそ、このことは見えない所で人々に影響を与え、それが表面化しないので、みんなが個人的な問題として抱え込み、いつまでたっても暗く秘密めいた状態であり続けるのです。



ある心理学者は、もしわれわれが10代のうちに、性に対する健全な理解と、適切な処理が行われていれば、この世の犯罪(性犯罪だけではありません)の多くは、消えてなくなるだろうと言っています。

執拗なまでの権力欲や支配欲は、歪んだ性が原因だとも言われています。

性に対する我々のあやまった抑制は、脳に何らかの影響を与えているのかもしれません。



このようなタブーに踏み込む勇気を持てば、健全な社会建設につながっていくのは明白なのですが、誰もそこに着手しようとしません。



それくらい性は、デリケートで困難なテーマなのです。







この情報が多くの人に届きますように。
これからも応援よろしくお願いします。





  


Posted by Blog Ranking at 08:39

2008年01月10日

タブーへの挑戦

バグワンの生涯、とくにその晩年は波乱にとんだものでした。


彼は80年代に、インドからその本拠地をアメリカのオレゴン州に移します。

真の宗教性を妥協なく貫こうとした姿勢は、伝統や形式や格式を重んじる既成宗教の反発を買います。




彼は生のあらゆる側面を肯定することを教えました。

性や欲望に対するアプローチも、いわゆる反宗教的なものでした。

そこにはとてつもなく深い洞察があったのですが、表面的にしか理解しようとしない人たちからは反感を買うことになります。



僕たちの社会は、性を一種のタブーのように扱っています。

したがって思春期におけるもっとも激しい性への衝動も否定され、それを抑圧することが健全と教えられます。


その結果多くの人が、解決されない「性」の問題を抱えたまま大人になっていきます。

それが不自然な性格や、不自然な生き方を作り出している原因になっています。


性を抑圧する姿勢と、フリーセックスや過剰なまでの性への執着は、同じものの両極端です。

どちらにも不自然さが付きまとっています。


多くの場合は、心の奥深くに封じ込め、表面的には問題なく生きているようにふるまいますが、その心の奥では様々な問題が起きています。


その問題を超えるために彼が提唱したワークは、かなり過激なものでした。

そこで行われていた行為の目的は、性の満足ではなく、性の完了、性の超越だったのです。




つづく


この情報が多くの人に届きますように。
これからも応援よろしくお願いします。





  


Posted by Blog Ranking at 11:02

2008年01月09日

バグワン

天河神社に御奉公するとき、持っていったのは着替えとワープロと一冊の本でした。

その本はバグワン・シュリ・ラジニーシの「ダイヤモンドスートラ」(金剛般若経)という本です。

もうボロボロになるくらいに何度も読んだ本でしたが、その時はどうしてもそばに置いておきたいと思ったのでしょう。


彼はキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ジャイナ教、道教、仏教と世界中の宗教に精通し、というよりも宗教という教義ではなく、キリスト、モハメッド、クリシュナ、マハビーラ、老子、釈迦といった個人に焦点を合わせ、真理を達成した人たちに共通して流れる存在の奥儀を彼らが残した言葉を使って解説してくれました。


それは言葉を聞くというよりは音楽を聴くといった感じの、美しい調べでした。

その言葉達は今も僕の心の底に流れ続けていて、バグワン(祝福されし者という意味)との出会いは、まさに僕自身の祝福につながっていきました。


さて、そんなバグワンの本を毎日読んでいた僕が、ある日不思議なことを知ります。

すでにバグワンには日本にも多くの弟子がいて、彼らをサニヤシンと呼んでいましたが、当時そのサニヤシン達が集う場所になっていたのが、この天河神社だったのです。


天河神社とバグワンは深いつながりがあったことは、後で知ったことです。

物語に出てくるように、神社建て替えの時の地鎮祭で、本殿の地中深くに埋められた宝物の中に、バグワンが神社に贈った90万年前の隕石があった話も後になって知りました。


そうそう、ある深夜、僕が社務所にひとり残っていると、そこにファックスが送られてきたことがあります。

英字だったのですが、何かと思って見てみると、なんとそれはバグワンからの日本人に向けてのメッセージでした。

それを最初に目にすることができたのは、神様の恩恵なのでしょうか。


不思議な因縁に驚いたものです。




これからも応援よろしくお願いします。






  


Posted by Blog Ranking at 09:49

2008年01月08日

ダルマージについて

ダルマージは実在した人物をモデルにしています。


1931年にインドに生まれ、21歳で究極の悟りを得たと言われています。

世界中の宗教の根底に流れる共通の真理を、見事なまでの美しい言葉で、よどみなく解説してくれました。

さらには、人間にとって最も大切な魂の覚醒、そして瞑想の必要性を説き続けました。


1960年代、ちょうどアメリカでヒューマンポテンシャル運動(人間性回復運動)が盛んになり、ニューエイジと呼ばれる人達や、フラワーチルドレンやヒッピーなど、物質主義に反旗を翻した若者文化が花開いた頃に、インドでアシュラムを開設し、そこには世界中から多くの求道者たちが訪れました。


そのころから「バクワン・シュリ・ラジニーシ」と名乗り始めます。


それがかんながら物語に登場するダルマージのモデルです。

物語にもあるように、彼は1990年1月に肉体を離れますが、その墓碑には

「生まれもせず、死にもしない存在が、ここに眠る」

と書かれました。



いままで、あまり彼自身のことに触れてこなかったのは、個人崇拝を嫌った彼の想いを尊重してのことでしたが、今後は少しずつ紹介していきたいと思います。





この情報が多くの人に届きますように。
これからも応援よろしくお願いします。





  


Posted by Blog Ranking at 11:35

2008年01月06日

書物

ブログや書物は文字情報です。

文字というのは固定されているだけに、読み手の解釈によってどのような意味にもなってしまいます。

これがもし講演や対話であれば、その場で質問したり答えたりする中で、理解の共有がはかれるのですが、文字はそうはいきません。

ブログの場合はわずかな時間差で意見交換できますが、書物となるとほとんど無理です。



ましてやそれが何百年も前に書かれたものだとすると、その解釈の幅はかなり大きなものとなるでしょう。



たとえばキリスト教の聖書やイスラム教のコーラン。

書かれている内容に忠実だとされる原理主義者の人たちが、何故相手を破壊しようとするのか、それがいつも不思議でした。



そのような聖なる書物に、相手を破壊せよと書いてあるのか。

それを提唱した人は、本当にそう言ったのか。

もしそう言ったとしたら、その真意はどこにあるのか・・・



というのも真理を経験した人が、暴力的であるわけがないからです。

ましてや自分と考え方の違う人間を殺せなどとは書いてあるわけがありません。



ジハード(聖戦)という言葉も、大ジハードと小ジハードに分かれるそうですが、そのどちらも、時のリーダーが自己の戦闘行為を正当化するために、内容を拡大解釈したもののようです。



この状況を一変させるには、底辺の人間一人ひとりが、イエスやモハメッドと同じレベルの深い気づきをすることだと思います。


そうすれば、はるか昔の人の言葉を指針にしなくても、自分の心の中から湧き上がるメッセージ(内なる神の声)に従って生きることができます。



これは日本人も同じことで、一部のカリスマや経典に恐れ入っているうちはダメだと思うのです。

相反する考え方と対立してしまうからです。




みんなで「せーの」で悟れたらいいですね。






多くの人に届きますように




  


Posted by Blog Ranking at 22:16

2008年01月05日

新しい時代 2

脅かすつもりはないのですが、いまのこの世界がこのまま続いて行くとは誰も思っていないでしょう。


環境問題、人口問題、エネルギー問題、金融問題、どれ一つとっても近い将来に音をたてて崩れそうな危険な状況にあります。

これらはすべて地球規模の、国境を越えた問題であるにも関わらず、あいかわらずその解決は各国に委ねられています。

各国のエゴによる利益追求は、地球規模の問題を解決することはありません。



いちはやく世界政府を樹立しない限り、越えられない問題ばかりですが、今の人類の意識レベルでは、それは難しいでしょう。


僕はこのような現象には悲観的な予想を持っています。

心ある人たちが警鐘を鳴らし続けてきたこれら問題は、遠からず現実化していくと感じています。


その時、我々の社会や生活がどうなるのかは想像もできません。

今までの何気ない暮らしが、どれほど恵まれたものであったのかを、改めて思い知らされることになるでしょう。



でもそれさえも、われわれの意識が飛躍的に成長するために仕組まれた試練だとして受け入れようと思います。

最後の最後は、すべてOKだという確信に揺らぎはありません。




僕の予想が外れて、そんな困難を経験せずに、人類が新しく生まれ変われたらそれが一番です。

もちろんその可能性がゼロだとも思いません。

でもそれは今の社会の延長戦上にないことだけは確かです。


ここでも取り上げるように、本当にアセンションのような意識変革が人類規模で起きて、地球に対する共同意識が各自に芽生えたら、そこから急速に始まっていく何かがあるでしょう。


意識変革が先か、破滅が先か、それは僕らのいまの選択にかかっているのかもしれません。

少なくとも僕たちは、そのような現実と向かい合って生きているのだということを忘れないことだと思います。



ささやかでも、個人レベルでやれることをやっていきましょう。

節電して、肉食を減らして、瞑想を習慣づけて・・・






この情報が多くの人に届きますように





  


Posted by Blog Ranking at 11:49

2008年01月04日

新しい時代

ここに書いていることは突飛に見えるかもしれません。

僕の感覚では、新しい時代は今の時代の修正の上に作られるのではなく、まったく違う次元の、まったく新しいものが生まれるのだと思っています。


アセンションとは、発展というよりは、突然変異のようなものではないかと感じています。

AがA’になるのではなく、違う何かに生まれ変わるのです。


そこに生きる人たちも、今の生き方や考え方の延長ではなく、根本的に違う感覚の人類たちだと思います。


それはもしかしたら僕たちが心の底から深い気づきを得て、まったく違う自分に生まれ変わるのかもしれませんし、あるいは、僕たちは消えて、新しい人類が登場するのかもしれません。


どちらにせよ、今とはまったく違うということだけは言えると思います。


アセンションを、僕たちの既知によって想像することはできません。

知識はすべて過去のものだからです。



それでもあえて何か言うとしたら、それは愛を基盤にした世界になるでしょう。


我々が一つの同じものだという理解を根底に持った、世界共同体です。


したがってそこに生きる人たちの教育の基盤には、「愛」が一番大切な科目になります。

同時に何かの技術を学ぶとしたら、それは「瞑想」だと思います。



教育の根幹に「愛」と「瞑想」が据えられています。



やっぱり突飛な発想に見えてしまいますね。

僕の表現力の限界で、感じていることをうまく伝えきれませんが、今まで読んだ本で言えば、「アミ・小さな宇宙人」の世界が一番近い気がします。


きっとここに訪れてくれる人の多くはもう読んでいるかもしれませんね。

まだの人がいたら、徳間書店から出ていますので読んでみてください。




共感してくれた人は応援よろしくお願いします




  


Posted by Blog Ranking at 10:14

2008年01月03日

教育改革 2

ここにジレンマが生じます。

というのも、教育方針を決定する人たちも、現場で教育に携わる人たちも、数十年前に教育を受けた人たちで、今とはまったく異なる時代の合理性を学んでいるからです。

驚くべきは、その基本は明治時代に作られたものなのです。



この数十年で時代は大きく変わりました。

おそらく歴史上、これほど急激に変わった時代はないでしょう。

しかもこの変化の波はますます速度を増していきます。


これからの世の中を担う今の子供たちの時代は、想像することさえ難しい、まったく違う文化、社会システムを生み出していくことでしょう。

それは闘争ではなく、愛を基盤にしたものになるべきです。



僕たちは愛ではなく暴力を教えられてきました。

その一番わかりやすい例が「歴史」です。


そこに登場する人たち。

織田信長、秀吉、家康、アレキサンダー、ジンギスカン、スターリン、毛沢東、ヒトラー・・・

多くの人を虐殺した、歴史的犯罪人たちの軌跡を学んでいるのです。


キリストや仏陀、ソクラテスや老子荘子、良寛や芭蕉、ドストエフスキーやトルストイ・・・

愛に基づく、偉大な思想家や芸術家たちこそ、もっと深く研究され教えられるべきだと考えます。


あいもかわらず暴力の歴史を主流にするのは、その教育方針の根底に、競争という暴力を学ばせる意図が無意識のうちにあるからでしょう。



競争が繁栄を生み、繁栄こそが人間の幸せにつながるという考え方自体を、改める時に来ていると思います。







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Posted by Blog Ranking at 08:34