2008年10月10日
肉体はレンタカー
もう少しだけ、死について語ってみます。
死ぬ時には何が起きるのでしょうか。
結論を言えば、死んでも何も起きません。
なぜなら、死なないからです。
肉体はこの世で生きるためにお借りしたレンタカーみたいなものです。
どんな優秀な車も使っていれば古くなり、修理しながら何とか持ちこたえさせようとしますが、それもいつかは限界がきて、エンジンがストップしてしまいます。
それが死ですが、運転手はまったくの無傷です。
車から降りると何が起きるのでしょう。
それは狭い車内から、広々とした大地に足を踏み出すのと似ています。
あまりにも清々しい空気。
あまりにも圧倒的な解放感。
そして広々とした自由な感覚に包まれていきます。
今までに、生きながらにしてそのような体験を何度かさせてもらいました。
「なーんだ、死なないんだ」
そう思ったとき、人生観がガラリと変わりました。
この世で何かを成し遂げなければいけないといった強迫観念がなくなりました。
そもそもレンタカーに乗って何処かに向かっているつもりでいましたが、実際にはサーキットコースのような巡回道路をぐるぐる回っていただけで、どこにも行きついてなかったのです。
前を走る人に追い付き追い越せと走ってきましたが、どこまで行っても前に人がいます。
あれ、この人はずいぶん昔に追い越した人じゃないかって気がつく時もあります。
一周遅れで前を走っていたのです。
何度抜いても同じこと。
だって何周したかを競うレースではなく、まさにいま、どのような走り方をしているかが問われているレースなのですから。
だから、気楽にいきましょう。
死ぬ時には何が起きるのでしょうか。
結論を言えば、死んでも何も起きません。
なぜなら、死なないからです。
肉体はこの世で生きるためにお借りしたレンタカーみたいなものです。
どんな優秀な車も使っていれば古くなり、修理しながら何とか持ちこたえさせようとしますが、それもいつかは限界がきて、エンジンがストップしてしまいます。
それが死ですが、運転手はまったくの無傷です。
車から降りると何が起きるのでしょう。
それは狭い車内から、広々とした大地に足を踏み出すのと似ています。
あまりにも清々しい空気。
あまりにも圧倒的な解放感。
そして広々とした自由な感覚に包まれていきます。
今までに、生きながらにしてそのような体験を何度かさせてもらいました。
「なーんだ、死なないんだ」
そう思ったとき、人生観がガラリと変わりました。
この世で何かを成し遂げなければいけないといった強迫観念がなくなりました。
そもそもレンタカーに乗って何処かに向かっているつもりでいましたが、実際にはサーキットコースのような巡回道路をぐるぐる回っていただけで、どこにも行きついてなかったのです。
前を走る人に追い付き追い越せと走ってきましたが、どこまで行っても前に人がいます。
あれ、この人はずいぶん昔に追い越した人じゃないかって気がつく時もあります。
一周遅れで前を走っていたのです。
何度抜いても同じこと。
だって何周したかを競うレースではなく、まさにいま、どのような走り方をしているかが問われているレースなのですから。
だから、気楽にいきましょう。
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09:11
2008年10月07日
死という祝福に向かって
死が自分に迫ってきたらどうするだろう。
人は決して死から逃れることができない。
だとしたら、死のプロセスに任せてみよう。
戦わないで、死を友として迎え入れてみよう。
そんな心境を持ち続けたいと思っています。
死はあらゆる存在の宿命です。
それは物質(肉体)からの解放であり、大いなる祝福だと思います。
未知なものに対する恐怖心が、死をややこしくしています。
しかし、その旅立ちをワクワクする冒険ととらえて、その一切を目を凝らして見届けることができたとしたら、その時に人は死を超えることができます。
死は存在しないことを見抜くからです。
そこに行きついた意識は、もう二度と生まれてくることはないと言います。
苦しみである人生に再び投げ出されることはないのです。
もし人生に目的があるとしたら、そのような死に方ができるような自分になっていくことだと思います。
死にざまが生きざまです。
「随(かんながら)神」の物語は、つまるところ、「いかに死ぬか」という物語のように思います。
神の思し召すままに、死さえも委ねて生きていたい今日この頃です。
人は決して死から逃れることができない。
だとしたら、死のプロセスに任せてみよう。
戦わないで、死を友として迎え入れてみよう。
そんな心境を持ち続けたいと思っています。
死はあらゆる存在の宿命です。
それは物質(肉体)からの解放であり、大いなる祝福だと思います。
未知なものに対する恐怖心が、死をややこしくしています。
しかし、その旅立ちをワクワクする冒険ととらえて、その一切を目を凝らして見届けることができたとしたら、その時に人は死を超えることができます。
死は存在しないことを見抜くからです。
そこに行きついた意識は、もう二度と生まれてくることはないと言います。
苦しみである人生に再び投げ出されることはないのです。
もし人生に目的があるとしたら、そのような死に方ができるような自分になっていくことだと思います。
死にざまが生きざまです。
「随(かんながら)神」の物語は、つまるところ、「いかに死ぬか」という物語のように思います。
神の思し召すままに、死さえも委ねて生きていたい今日この頃です。
Posted by Blog Ranking at
10:06