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Posted by TI-DA at

2022年08月23日

コロナ騒動とワクチン

2011年、原発事故で日本中が大騒ぎしていた時のこと。

一部の人は東京から田舎に引っ越し、中には海外に移住する人たちもいた。

人は忘れやすいけれど、あの頃まことしやかに言われていたことを思い出してほしい。

反原発論者を始めとして彼らは、東京の子供たちは10年後にバタバタ死んでいくと言い切っていたのだ。


何を根拠にそう言っていたのか。

僕は放射能を自ら浴びたいとは思わないが、もし原発事故で漏れた放射能が致命的ならば、子供の頃に戦争で被爆した高齢者たちは、よほど運のいい人なのか。

実際の話、どれだけの科学的データを基にして、東京の人たちを脅かし、福島県民を辱めたのか、いまだにその検証はされないままだ。


しかも当時そう言い切った人たちは、何の責任も取らない。

問い詰めれば、数十年後にバタバタ死ぬとか言い出すのだろう。

そりゃそうだ。

僕もそのバタバタ死ぬ一人だ。老衰で。


そのことを指摘したら、子孫たちにその影響が出ると言った人がいる。

それって、いまのあなたの不幸は何代前かの先祖の霊障だと言う人と何ら変わらないんじゃなかろうか。

まあいい、言いたいことはそこではいから。


言いたいのはいまのコロナ騒ぎだ。

大変だ、大変だ、と騒ぎまくってきたテレビのコメンテーターや、専門家と称する人たち。

大抵は一つの事象に対して人の数だけ考えがあるのに、そこに出てくる人たちが言うことは、中身は違えど同じ方向の話ばかりだ。

要は、大変だ!大変だ!って。


それに反することを言おうものなら、すっかり洗脳されてしまった国民から一斉にバッシングを受ける。

愚民とはよく言ったもので、本当にバカばっかりだと思う。


僕が指摘しているのは、メディアや専門家と称する人の話に恐れ入って、思考停止してしまう風潮についてだ。

彼らのことを正しいと信じる根拠は何なのか。

いつも正義の使者のような顔をしている玉川徹みたいな人たちは本当に正しいのか。

もしかしたら正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。

それが大人の態度ではないだろうか。


僕は原発事故の時の政府の態度については、おおよその理解ができた。

一部の人たちがまくしたてたように、危険を隠ぺいしてオリンピックを招致させるために政府が世界を欺こうとしているなんてことはないと思っていた。

時間が経てばバレるようなウソを国際的に宣言すれば、日本の信用は地に落ちてしまうからだ。


しかし今回のコロナ騒動と、過剰なまでのワクチン接種の奨励だけはよくわからない。

この裏に何かがあるのか。


断っておくがこの記事を見て、コロナは陰の権力者の陰謀だとか言っている人を元気づける気はないし、残念ながら僕の考えはそこにない。


また続きを書く気でいるが、これが正しいとは言わない。

言うまでもなく、これも一人の意見に過ぎないから。


今日はここまで。
  


Posted by Blog Ranking at 07:48

2022年08月21日

いろんな制度

簡単な話、人はみんな幸せになるために生まれてきたのだから、どんな社会の仕組みにしたらそれが実現できるのか、根本的に考え直してみてもいいのではないだろうか。

我々が当たり前として受け入れてきたことを、もう一度見つめ直す価値はある。


たとえば結婚という制度。

それが幸せだと言う人もいるだろうが、世の中を見まわすとそれだけではなさそうだ。

出会って数年のラブラブ期間はいいとしても、男と女が一つ屋根の下で暮らせば、時間経過と共に必ず問題が生じてくる。

たいていの場合は相手に自分の闇を映し出すことになる。

しかも最初に相手に期待した分だけ、失望は大きい。

「こんな人だとは思わなかった」

それを自己の成長に使うこともできるけれど、そんな気になれなければ、ましてや2人とも離れたいのならば、離れるのがお互いのためだということは明らかだ。


すでにその相手を必要とする期間は終わっているのに、ひとたび結婚してしまえば、世間体や、子供の事や、経済的理由などで、別れるのは難しい。

そうやって喜びを封印したまま、何年間も、ことによったら何十年間も耐え忍びながら生きなければならず、そのまま人生を終えていく人も少なくない。


実際には多くの人がこのような人生を送っているのではないだろうか。

自分の両親もそうだったと感じる人は多いだろう。

そしてそんな自分も同じ道を歩んでいる。


このような事態に陥る原因は、その人の人格的な問題というよりは、そもそも結婚という縛りが人を幸せにしないのではないだろうか。


でも誰もそのことを言わないし、まるで自分の家はサザエさん一家みたいに上手くいっていると思わせる人もいる。

そんな人ばかりが周囲にいれば、自分の家の内情など話せるわけがない。

自分の家もサザエさん一家の振りをするしかないのだ。


みんなで「もう、うんざりだ!」と大声をあげれば、社会で隠されてきた問題も見えるかもしれない。


どうだろう、思い当たる人は、ここはひとつ大声で叫んでみては。


「もう、うんざりだ!!」

少しはスッキリした?


我々は制度のために生きているのではない。

やはり一人一人の意識レベルが上がれば、制度などいらなくなるのかもしれない。


と、ここまで言っておいてなんだけど、結婚には結婚にしかない素晴らしさもある。

結局は制度自体と言うよりも、それを使う人間側の問題かもしれない。


愛があれば上手くいく。

なにごとも。




  


Posted by Blog Ranking at 07:30

2022年08月20日

統一教会問題に思う事

政治家を選挙で選んでいるうちは、誰が政治家になっても、どの党がやっても何も変わらないという話をもう少し。


いま話題になっている統一教会(旧はいらない)と政党の癒着のことだって、選挙制度そのものが問題の根幹にあるのに、そこは誰も触れない。

そもそも宗教団体が集票マシンになっていること自体が、すこぶる不健全な話だ。

しかし宗教団体は聖域みたいなもので、神聖にして侵すべからずなのか、それとも思考停止しているのか、政治家にとって集票に必要だからか、今回も一部の魔女狩りみたいになって終わっていくんだろうな。


政治家の一番の関心は「票」であって、さらには選挙戦にかかる「お金」であって、そこを満たしてくれるなら片眼を瞑ろうってのが、いま暴かれ始めた問題の本質だと思う。

統一教会みたいな、宗教としては問題外の外みたいなのを糾弾するけれど、僕に言わせればほとんどの宗教団体は集票マシンであり、公明党なんかは創価学会の政治部と言われても仕方がないわけで、政教分離だなんていう言葉が虚しく感じる。

ここは宗教とは何かということを考えるいいチャンスなのに、ほとんどの政党は宗教団体の支援を受けているから、宗教団体の是非には踏み込まない。

それもこれも選挙制度が作り出していると思う。


民主主義が国民にとって最高の形だと信じている人にとっては、選挙制度が変われば(無くなれば)、ずいぶん無駄のない、そして透明性を持った、真の意味での民主主義国家が誕生するだろう。

これからのテクノロジーの進化に伴って、いまみたいに我々の代表を選挙で選んで国政や外交を任せるという間接民主主義から、直接民主主義に移行することも不可能じゃない。

自我の権化を選ばなくていいだけマシだ。


でもそれも危ういのは、昨日も紹介した「この程度の国民に、この程度の政治」が如実に現れる可能性があること。

その時々の民意が決定権を持ったら、たくさんの間違いをしでかすに違いない。

それではどうしたらいいのかは、いまの我々の意識レベルでは何も語れない。

やはり一人一人の存在への理解が高まり、意識が恐れから愛にシフトしたときに自然に現れてくる秩序が、新しい社会構造になっていくのだと思う。


いままであらゆる革命が失敗したのも、制度に人間の意識が追い付いていなかったからだ。

共産主義だって本当は理想的な面もあるのに、ロマノフ王朝や清王朝の中世国家で虐げられていた人たちが革命を起こしていきなり導入したから、たんに権力者が変わっただけで、醜悪な政治体制しか生まなかった。


だから制度を変えるのではなく、人間の意識を変えることが先決だ。

本来はそれを促すのが宗教の役目だが、残念ながら宗教団体は存在しても真の宗教性は見失われてしまった。

団体になってヒエラルキーを持った時点で、宗教性が堕落するのは当然だ。

だって人心をコントロールするための「ウソ」が入り込むから。


真理は組織化できない。

真理は各自の中にあるのだから。

釈迦やキリストや、その他にもたくさん出現したブッダたちが、誰一人宗教を始めなかったのは、そのことを知っていたからだ。


宗教を始める人間は、パラノイヤか詐欺師だというのは言い過ぎだろうか。

「言い過ぎだ!!」

はい、反省します


日本の新興宗教にも役目があった時代はあった。

たとえば戦後の人間の心が拠り所を無くしたときに、彼らを勇気づけた役目を宗教団体は担っていた。

そのような意味で役に立ったのだ。

いま国内にある大手団体の多くは、そのころに肥大化した組織だ。

でももうその役目は終わった。


これからは宗教団体という形ではなく、純粋に真理を分かち合える、横社会の仲間が必要なのだと思う。

そうやって人の意識が向上していくことが、誰も幸せにしない欺瞞に満ちた社会を変える礎になっていくと信じている。
  


Posted by Blog Ranking at 09:41

2022年08月19日

お久しぶり。

ブログタイトルを「シャバダ・バダ」から「裏ブログ」に変えた。

もともと「シャバダ・バダ」というタイトルだったのは、娑婆(しゃば)の話をしようと思ったから。

その精神は保ったまま、今日は久しぶりに新しく記事を書いてみよう。



娑婆(しゃば)への考え方は沢山あって、僕の意見もその中の一つに過ぎない。


愛(真理)は一つしかないけれど、娑婆の意見は人の数だけある。

愛を語ったときは問答無用でも、娑婆の意見に対してはそうはいかない。

これを読めば、いろいろ言いたくなるはずだ。

そんなわけで、面倒だからこのブログにはコメント欄がないのだ。



さて久しぶりの記事に何を書こうか。

いきなり政治の話でもしてみる?


その昔、「この程度の国民なら、この程度の政治」と言った法務大臣がいた。

歴代の政治家発言の中で、マイベストの名言だ。


僕は常々、選挙で政治家を選んでいるうちはダメだと思ってきた。

たぶん将来は全く違う形で政治や行政が行われていくだろうけれど、まだ当分はいまの形が続くだろう。


なぜ選挙で選んでいるうちはダメなのかと言うと理由は沢山ある。

まずは政治家を、政治家になりたい人の中から選ばなくてはいけないということ。

立候補する人って、変な人ばかりだと思わない?

自分の力で何かを変えようとか、影響力持ちたいとか、自我の特性をそのまま発揮するような人ばかり。

言うことは美しいけれど、結局は権力闘争であり、勝手にやれよって感じ。

「日本国の将来のために」とか言っても、そんな言葉が百年以上も繰り返されてきて、いまも何も変わらない。

何故かと言えば、自我の構造が変わらないから。


他にも選挙がダメな理由は幾つもある。

そもそも晴れて選ばれた人の在任期間の一番の関心はなんだろう。

それは次の選挙にも勝つこと。

よく見てみれば僕が言っていることが分かるよ。

政治行動の選択基準が、つまるところそこに来てしまうのは仕方ない。

だってそれがなくなったら元も子もないのだから。

したがって彼らは票にならないことはやらない。



あとは政党政治というナンセンス。

与党も野党も、一見希望が持てそうな新しい党も、党であること自体が暴力的で、これも選挙制度の産物だ。

これしかないからみんな麻痺しているけど、「選挙戦」と言うように、戦いがその背後にあるのだから愛とは程遠い。

そう、選挙制度とは愛のない制度なのだ。


したがって人が愛に目覚めることが、抜本的な社会の変化に繋がる。

じれったいけれど、それしかない。


まだまだあるけど、今日はこの辺にしておこう。


いろいろ書いたけど、笑って許してちょうだい。


許してチョーダイ!


♪ピアノ売ってチョーダイ!!


大して面白くなくてスマン。
  


Posted by Blog Ranking at 06:31