昨夜遅く、向和尚から返信がありました。
実は向さんのような方は、自分の悟りをあまり口にすることはありません。
「知った者は言わず」
「言う者は知らず」
という基本姿勢を生きておられるからです。
でもある時僕は向さんにこのように言いました。
「知った人が言わずして、いったい誰がそれを言うのか」
その言葉を受けて下さったのかどうか知りませんが、このように正面からご自分の悟りを話してくださることに感謝します。
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生死を超えた大いなる命との邂逅
私の見性(悟りの)体験を、「生死を超えた大いなる命との邂逅」と表現しましたが、
私にとって究極の体験であり、大いなる命に回帰した、魂の故郷に帰ったという安らぎに満ちた体験であることは確かです。
「生死を超えた」というのは、少し筆がすべって出来合いの表現をしてしまったかなと思います。
生と死と二分する意識がなくなった、思いがなくなった「非思量」の世界ということです。
「生死を超えた」からといっても、私は死ぬのはまだまだいやです。
「いつ死んでもよろしい、人のためいつでも自分の命を身代わりに差しだしましょう」という境地には到っていません。
白隠禅師は 「大悟十八回、小悟数知れず」 と言ったそうですから、私が究極の体験と思っていても、より深い体験があるのかもしれません。
私が究極の体験というのは、あれ以上の体験を期待することも求めることもないということですが、なんら期待することなく坐禅をし修行を続けていけば、さらに深い境地が開けるかもしれません。
たとえて言うと、
私たちの個々の命は、大海の波の一粒の滴(しずく)のようなものだと思います。
見性体験というのは、波の滴:「個の自分」が大海に帰るようなものでしょう。
その時、波の滴は大海の広さと深さの全量を自分に感じて、限りない安らぎと力を感じることができるのです。
しかし、波の滴は大海のすべてではありません。
意識し言葉の世界にとどまることは、波の滴の「個の自分」にとどまることです。
波の滴が大海のすべてではないように、個の自分は大海のすべてを理解し語ることは出来ません。
個の自分にとって大海は、どこまでも不可思議なワンダーな世界なのです。
ですから、霊的世界を知り尽くしたように語ったり、断言的に前世を語ることは出来ないはずです。
霊的世界を究めるためには、大いなる命への畏敬の感情が基調になければなりません。
「なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」
西行法師が伊勢神宮にお参りした時に詠んだこの歌は、霊的世界を表現する素晴らしい歌だと思います。
あれ!もう深夜の1時です。明日も早いので今晩はこのへんで、皆さんお休みなさい。
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向さん、ありがとうございました。
僕たちが大海に帰りつくその日まで、ご指導よろしくお願いします。
多くの人に届きますように
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