今日も向和尚からメッセージを頂きました。
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禅は、達磨が「不識」“知らん”といったように、意味を絶した非思量の生の原初の地平に人間を降り立たせます。
まるで言葉も知らず、良い悪いも知らない赤ん坊のように、「いまここ」のリアルな世界に溶けこんで、感性全開に霊性的直感をもって生きるのです。
その地平に降り立つために必要な作業は、ただ一切を捨てることです。
道元禅師の云う
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、
ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」
という境地です。
それでは禅は、全く意味もなく思うこともなく生きよというのでしょうか……。
人間に理性があるかぎり、意味を問い思うことは大切です。
ただ、自分が人生に何か期待して、「人生の意味は」とあれこれ思ってみても、「不可解なり」と煩悶するばかりです。
問いの立て方が逆さまなのです。
世界に人生に、私たちが「人生の意味は」と問うのではなく、
世界が人生が、私たちに「人生の意味」を問いかけているのです。
「いまここ」のリアルな状況に身を投げ出し、溶けこんで生きることで、虚心に現場の声を聞き、現場の呼びかけ(コーリング)に答えるのです。
私たち自身が、それぞれにかけがえのない「いまここ」の状況において、問いかけられているのです。
その時その時に応じて答えを出し、「人生に意味を与える」ことが、人間の責務であり歴史的生命を真実に生きていくことです。
私の20歳の時の人生の意味は、禅の「無位の真人」を体得することでした。
大手スーパーでの5年間は、現場に身を投じて働き、現場の生の声を聞き、現場の改善をはかることでした。
30歳で雲水となった最初の一年は、とにかく専門道場から逃げ出さないことでした。
20歳から還暦を迎える今までの40年間、呼びかけに明らかに答えた時期もあれば、惰性に流され無自覚に生きてしまった時期もあります。
「人生の意味」が明らかであった時は、リアルな生の現場に身も心も投げだした時でした。
すなわち最も「目覚めて」生きていた時期です。
60歳になったこの頃、社会的地位も安定し人生に慣れてきたせいでしょうか、何か不透明な感じがしています。
安定し慣れるということは、本来自由で無限に広がるべき命が、意識のレベルで囲いこまれてしまっているからにほかなりません。
達磨が「不識」“知らん”といった生の原初の地平に降り立ち、「いまここ」のリアルな状況に身も心も投げ出すことから始めたいと思っています。
多くの人の目に留まりますように
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