普通のおじさん
僕が禅の世界や向和尚と出会って、とても参考になった事があります。
それは「悟り」と、悟った後のその人の状態です。
僕たちは普通、悟った人は聖者のように高潔な人格者になると考えがちです。
怒ることもせず、欲望も持たず、いつも静かな微笑をたたえている、そんな姿を描いたりもします。
でも悟るとは、あるがままの自分を受け容れることであり、あるがままの自分にしかなれないことを認めることです。
それは高潔さとは何の関係もありません。
禅の高僧というと凄い人のように思いがちですが、そうではなく、自分はまったくの普通の人間であることを認めた、普通のおじさんだったりします。
自分がごく普通の人間であることを認め、そこにくつろぐ姿は、むしろ特別な状態かもしれません。
反対に自分が特別な人間だと思い、それを証明しようとしている姿こそが、普通の状態だと思うのです。
人が持つ「特別意識」
それは自我のひとつの側面です。
特別意識がなくなることが悟りなのかもしれません。
禅の真髄でもある老子は「水のごとく生きる」ことを提唱しました。
水は最も低いところを流れようとします。
もし僕たちが自分のあたりまえさにくつろぎ、人より優れようとせず、もっとも低いところに身を置いて、そんな状態に満足する事ができたら、それこそが人生の極意なのでしょう。
誰からも疎まれることもなく、誰からも攻撃されることもなく、最初から負けているがゆえに決して負かされることもない。
そんな人間になりたいものです。
再び向さんからの寄稿を待っているのですが、なにせ臨済宗方広寺派の教学部長という要職にある身なので、とてもお忙しいようです。
いましばらくお待ちください。
これからもよろしくお願いします
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