禅語あれこれ

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2007年09月10日 10:32

いよいよ来沖が一週間後にせまった向禅師。

今日から禅語を解説してくれます。


たまたま立ち寄った東京の大手書店で、売り上げが一位だったのが禅語の本でした。

向さん流の講義を楽しみにしています。


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さて今回から私の好きな禅語をいくつか紹介しましょう。


禅語の多くは、師と弟子の禅問答に出てくる言葉で、参禅修行の公案にもなっています。


本来は、禅師(ゼンマスター)の非思量の原初の一なる地平から発せられた言葉ですから、説明したからといって頭で理解するのではなく、禅定三昧になってその状況に身をおいて体得すべきものです。

しかし、言葉のうえの理解でも味のあるなかなか面白い禅語があります。



独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)


『碧巌録』の第26則にある、百丈懐海禅師(720-814)の言葉です。

百丈禅師は唐の時代の有名な禅僧で、江西省南昌府の大雄山、別名百丈山に住した百丈懐海(えかい)禅師のことです。

百丈禅師は、「百丈清規」(ひゃくじょうしんぎ)を制定し、禅門の役職のことから食事の作法に至る規律を作られ、今日の禅宗の道場の日々の修行の基礎を定められた禅僧です。



ある時、弟子が百丈禅師に尋ねました。
「この世で最もありがたいことは何でしょうか?」


百丈禅師は答えます。
「わしがこうしてこのお山に、どんずわっておることじゃ!」

すると、僧は礼拝しました。

百丈は竹篦(しっぺい)でピシリとその僧を打ちました。


【僧、百丈に問う「いかなるか是れ奇特の事」。
 丈云く「独坐大雄峰」。 僧、礼拝す。丈、すなわち打つ。】
 


私たちは、人生の素晴らしことありがたいことを、自分の存在の外側に求めていることがおおいようです。

しかし、生の根本的な喜びは、存在の奇跡ともいえる「いまここに」生かされて在ることです。


その、しみじみと「いまここに」生かされて在ることを味わう行が坐禅です。

何かを得るためにするのではなく、ただ生きて在ることを味わう「安楽の法門」です。


天地宇宙と共にある、一なる地平に生かされてあることの無条件の喜び、安らぎをしみじみと味わうことです。




檀家のお婆さんで、百歳ちかくまでの天寿を全うし、安らかに大往生された方がいます。

いつも人に親切にしながら農家の主婦として懸命に生きてこられたそのお婆さんの口癖は、「ああ、ありがたいやあ!もったいないやあ!」でした。


ご先祖を敬い、素朴な信仰に生きたごく平凡な女性ですが、私は、百丈禅師と同じ悟りの境地に生きた方だと尊敬しています。



もし、あなたが主婦で、子供に
「お母さん、人生で一番幸せな、ありがたいことってなに?」
と聞かれ、

「わたしが台所でこうして料理をしていることよ」
と、ニッコリ笑って答えれば、あなたは百丈禅師と同じく素晴らしい心境の人でしょう。



すなわち、独坐大雄峰は、いまここの命への理屈抜きの無条件の肯定、全幅の信頼、自信の表現です。


「独坐」というのは、独り二人ということではなく、周りの状況の変化や起こる事を超え、天地一杯の命になった独りでしょう。



人生で一番幸せなありがたいことは、いまここに生かされてある命の外にはない。

ですから、先ず始めにいまここの「生命への信頼」ありきです。



病気であろうが健康であろうが、金があろうが無かろうが、まず、いまここの自分をありのまま受け入れ認め、まわりの人もありのまま受け入れ認めることです。



「ナムアミダブツ」は極楽往生の名号・真言ですが、極楽往生を先のこととせず、「いまここ」でご臨終と受けとめながら、死をも「ああもったいない、ありがたい」と受けいれる究極の言葉です。

 

「独坐大雄峰」 「ああもったいない、ありがたい」 「ナムアミダブツ」



これらの言葉を真言として常に心で唱えてみてください。

あなたはまちがいなく、幸せな人になれます。






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