いまは精神世界の書籍や情報が巷に溢れていますが、たかだか20数年までは、ほとんど出会うことはありませんでした。
スピリチュアルという言葉も、当時ある会議で使ったら、英語に堪能な人までもが「なんじゃそれ?」って顔で僕を見ていたのを思い出します。
あのころ東京の本屋さんで、精神世界のコーナーがあったのは、ヒッピーが多く集まっていた西荻窪の小さな本屋さんと、六本木の麻布警察署の隣にあった青山ブックセンターくらいのものだったように思います。
もちろん新興宗教の教祖さんの本は、いろんな本屋に並んでいましたが、ちょっと読んだだけで、あまりにも強引な文脈に、それ以上の興味を持つことができませんでした。
そんな中で、青山ブックセンターで見つけた一冊の本は、それ以後長きに渡って僕のバイブルとなりました。
その本の名前は
「タントラへの道」
チョギャムトウルンパというチベット密教カーギュ派の師の講話録でしたが、一分の隙もなく、真理を見事な言葉で言い表してくれていました。
僕は10冊以上買ったと思いますが、みんな人にあげてしまったり失くしてしまったりで、いまは手元にありません。
チョギャムトウルンパの足元にも及びませんが、同じような気づきの体験をした人への、わずかながらでも助けになれたら嬉しいと思い、僕もささやかにブログ活動なんぞ続けているわけです。
最初にこの本に出会ってよかったのは、精神の道が決してドラマチックなものではなく、むしろ淡々とした、たいくつさを伴うものだということを教えてもらったことです。
僕たちは自分の精神性を高めていく途上で、いつか奇跡が起こったり、劇的な出来事が起きたりする事を期待してしまいますが、実際にはそんなことはなく、ただシンプルであたりまえな人間になっていくことにすぎません。
霊能力が発揮されたり、超人になったり、高潔な聖人になることと、精神性が高まって真理を獲得することとは何の関係もありません。
僕らは、特別な何かになろうとし、自分の人生に特別な出来事を期待してしまうのです。
精神性が高まるというのは、自我の存在が無くなっていくということです。
ところが自我というものは非常に狡猾で、精神性の高まりさえも自分を飾るアクセサリーにしてしまうのです。
それを「精神の物質主義」と呼びます。
精神の道は、誰も見ていてくれません。
誰も誉めてもくれません。
それは孤独な道なのです。
幾重にも身にまとった自己欺瞞をひとつひとつ見つめ、皮膚を剥ぐような思いで自分を裸にしていく。
それは苦痛と屈辱にまみれながらの、自分との戦いなのです。
チョギャムトゥルンパ師は「タントラへの道」という本をとおして、そんな基本を徹底的に教えてくれました。
チョギャムトゥルンパの「タントラへの道」に最初に出会ったことは、今の僕の考え方に大きな影響を与えています。
宗教、経典、霊感、教祖、聖者、覚者といったシンボルに惑わされなくなったからです。
どのような権威も、どのような神聖なイメージも、己が真理に行き着くためには、邪魔な存在でしかありません。
それらはすべてまやかしだと断言し、あるがままの自己と共に一人立つところが本当のスタートです。
こんな僕に対してさえ何かしらの霊的幻想を抱き、高く評価して執着しようとする人がいます。
そのような人は、いずれ自分の美学に反する側面を僕の中に見たとき、僕から去っていく人です。
勝手に恋をして、勝手に失望していくのです。
トゥルンパ師は言います。
精神の道を歩きたいのであれば、まずは徹底的に希望と期待を捨てることから始めろと。
すがりつくものが何一つ無い、そんな絶望的状況の中で、初めて教えが身についていくと。
でも多くの人は、それをやろうとしません。
自分の可能性を信じ、自分を導いてくれる崇高な魂の持ち主を待ち望んでいるのです。
そうやって自我は、精神の道さえも、自分を飾る新しいコレクションに変えてしまうのです。
僕はチベットの僧院で修行してきたんだ。
それはそれは神秘的な毎日だったよ。
静寂の中で何度も次元を超えた世界を垣間見たんだ。
規則正しい生活、深遠なグルの教え、幾世代にわたり大切に守られてきた経典。
どれもこれも神聖で素晴らしい体験だった。
君も行ってごらんよ。
このような態度も同じく「精神の物質主義」なのです。
タントラというと、ちょっと詳しい人はすぐに、セックスを教義に取り入れた宗教だと連想します
たしかにタントラはセックス行為を修行の中に取り入れている部分があります。
でもそれは一定期間の修行を終えた人達、もっと言えば性欲を100%コントロールできる段階の人たちによって扱われてきたテクニックです。
ではなぜ彼らはセックスを使うのでしょうか。
それはタントラが、「生」に対して全面的肯定の立場をとっているからです。
何かを抑圧するのではなく、自然が与えた人間の可能性を全部引き出して、意識の高みに昇ろうとするのです。
したがって、タントラの修行は身体的なものが多いのです。
通常宗教的修行の多くは、精神的なものや霊的なものが多いのですが、タントラは違います。
それはタントラが、極めて現実主義だからです。
実際のところ、僕たちは身体しか知らないのです。
多くの人達は、霊だとか、魂だとか、あたり前のように知っているつもりでいますが、それは知識として知っているるだけで、あるいは感覚として漠然と知っているような気がしているだけで、本当に正直に自分を見つめれば、実際に確信できるのは身体だけなのです。
だからといって、霊や魂がないと言っているのではありませんが、彼方なる次元に行き着いて初めて知る事を、むやみに知ったかぶることは無意味だとタントラは言います。
そのような観点から見てみますと、タントラはあらゆる宗教の中でも、もっとも現実的なアプローチをしているように思います。