2022年08月20日
統一教会問題に思う事
政治家を選挙で選んでいるうちは、誰が政治家になっても、どの党がやっても何も変わらないという話をもう少し。
いま話題になっている統一教会(旧はいらない)と政党の癒着のことだって、選挙制度そのものが問題の根幹にあるのに、そこは誰も触れない。
そもそも宗教団体が集票マシンになっていること自体が、すこぶる不健全な話だ。
しかし宗教団体は聖域みたいなもので、神聖にして侵すべからずなのか、それとも思考停止しているのか、政治家にとって集票に必要だからか、今回も一部の魔女狩りみたいになって終わっていくんだろうな。
政治家の一番の関心は「票」であって、さらには選挙戦にかかる「お金」であって、そこを満たしてくれるなら片眼を瞑ろうってのが、いま暴かれ始めた問題の本質だと思う。
統一教会みたいな、宗教としては問題外の外みたいなのを糾弾するけれど、僕に言わせればほとんどの宗教団体は集票マシンであり、公明党なんかは創価学会の政治部と言われても仕方がないわけで、政教分離だなんていう言葉が虚しく感じる。
ここは宗教とは何かということを考えるいいチャンスなのに、ほとんどの政党は宗教団体の支援を受けているから、宗教団体の是非には踏み込まない。
それもこれも選挙制度が作り出していると思う。
民主主義が国民にとって最高の形だと信じている人にとっては、選挙制度が変われば(無くなれば)、ずいぶん無駄のない、そして透明性を持った、真の意味での民主主義国家が誕生するだろう。
これからのテクノロジーの進化に伴って、いまみたいに我々の代表を選挙で選んで国政や外交を任せるという間接民主主義から、直接民主主義に移行することも不可能じゃない。
自我の権化を選ばなくていいだけマシだ。
でもそれも危ういのは、昨日も紹介した「この程度の国民に、この程度の政治」が如実に現れる可能性があること。
その時々の民意が決定権を持ったら、たくさんの間違いをしでかすに違いない。
それではどうしたらいいのかは、いまの我々の意識レベルでは何も語れない。
やはり一人一人の存在への理解が高まり、意識が恐れから愛にシフトしたときに自然に現れてくる秩序が、新しい社会構造になっていくのだと思う。
いままであらゆる革命が失敗したのも、制度に人間の意識が追い付いていなかったからだ。
共産主義だって本当は理想的な面もあるのに、ロマノフ王朝や清王朝の中世国家で虐げられていた人たちが革命を起こしていきなり導入したから、たんに権力者が変わっただけで、醜悪な政治体制しか生まなかった。
だから制度を変えるのではなく、人間の意識を変えることが先決だ。
本来はそれを促すのが宗教の役目だが、残念ながら宗教団体は存在しても真の宗教性は見失われてしまった。
団体になってヒエラルキーを持った時点で、宗教性が堕落するのは当然だ。
だって人心をコントロールするための「ウソ」が入り込むから。
真理は組織化できない。
真理は各自の中にあるのだから。
釈迦やキリストや、その他にもたくさん出現したブッダたちが、誰一人宗教を始めなかったのは、そのことを知っていたからだ。
宗教を始める人間は、パラノイヤか詐欺師だというのは言い過ぎだろうか。
「言い過ぎだ!!」
はい、反省します
日本の新興宗教にも役目があった時代はあった。
たとえば戦後の人間の心が拠り所を無くしたときに、彼らを勇気づけた役目を宗教団体は担っていた。
そのような意味で役に立ったのだ。
いま国内にある大手団体の多くは、そのころに肥大化した組織だ。
でももうその役目は終わった。
これからは宗教団体という形ではなく、純粋に真理を分かち合える、横社会の仲間が必要なのだと思う。
そうやって人の意識が向上していくことが、誰も幸せにしない欺瞞に満ちた社会を変える礎になっていくと信じている。
いま話題になっている統一教会(旧はいらない)と政党の癒着のことだって、選挙制度そのものが問題の根幹にあるのに、そこは誰も触れない。
そもそも宗教団体が集票マシンになっていること自体が、すこぶる不健全な話だ。
しかし宗教団体は聖域みたいなもので、神聖にして侵すべからずなのか、それとも思考停止しているのか、政治家にとって集票に必要だからか、今回も一部の魔女狩りみたいになって終わっていくんだろうな。
政治家の一番の関心は「票」であって、さらには選挙戦にかかる「お金」であって、そこを満たしてくれるなら片眼を瞑ろうってのが、いま暴かれ始めた問題の本質だと思う。
統一教会みたいな、宗教としては問題外の外みたいなのを糾弾するけれど、僕に言わせればほとんどの宗教団体は集票マシンであり、公明党なんかは創価学会の政治部と言われても仕方がないわけで、政教分離だなんていう言葉が虚しく感じる。
ここは宗教とは何かということを考えるいいチャンスなのに、ほとんどの政党は宗教団体の支援を受けているから、宗教団体の是非には踏み込まない。
それもこれも選挙制度が作り出していると思う。
民主主義が国民にとって最高の形だと信じている人にとっては、選挙制度が変われば(無くなれば)、ずいぶん無駄のない、そして透明性を持った、真の意味での民主主義国家が誕生するだろう。
これからのテクノロジーの進化に伴って、いまみたいに我々の代表を選挙で選んで国政や外交を任せるという間接民主主義から、直接民主主義に移行することも不可能じゃない。
自我の権化を選ばなくていいだけマシだ。
でもそれも危ういのは、昨日も紹介した「この程度の国民に、この程度の政治」が如実に現れる可能性があること。
その時々の民意が決定権を持ったら、たくさんの間違いをしでかすに違いない。
それではどうしたらいいのかは、いまの我々の意識レベルでは何も語れない。
やはり一人一人の存在への理解が高まり、意識が恐れから愛にシフトしたときに自然に現れてくる秩序が、新しい社会構造になっていくのだと思う。
いままであらゆる革命が失敗したのも、制度に人間の意識が追い付いていなかったからだ。
共産主義だって本当は理想的な面もあるのに、ロマノフ王朝や清王朝の中世国家で虐げられていた人たちが革命を起こしていきなり導入したから、たんに権力者が変わっただけで、醜悪な政治体制しか生まなかった。
だから制度を変えるのではなく、人間の意識を変えることが先決だ。
本来はそれを促すのが宗教の役目だが、残念ながら宗教団体は存在しても真の宗教性は見失われてしまった。
団体になってヒエラルキーを持った時点で、宗教性が堕落するのは当然だ。
だって人心をコントロールするための「ウソ」が入り込むから。
真理は組織化できない。
真理は各自の中にあるのだから。
釈迦やキリストや、その他にもたくさん出現したブッダたちが、誰一人宗教を始めなかったのは、そのことを知っていたからだ。
宗教を始める人間は、パラノイヤか詐欺師だというのは言い過ぎだろうか。
「言い過ぎだ!!」
はい、反省します
日本の新興宗教にも役目があった時代はあった。
たとえば戦後の人間の心が拠り所を無くしたときに、彼らを勇気づけた役目を宗教団体は担っていた。
そのような意味で役に立ったのだ。
いま国内にある大手団体の多くは、そのころに肥大化した組織だ。
でももうその役目は終わった。
これからは宗教団体という形ではなく、純粋に真理を分かち合える、横社会の仲間が必要なのだと思う。
そうやって人の意識が向上していくことが、誰も幸せにしない欺瞞に満ちた社会を変える礎になっていくと信じている。
Posted by Blog Ranking at 09:41