2007年07月28日

向和尚より

無位の真人


私が二十歳の時、初めて出会った禅の衝撃的な言葉、それがこの「無位の真人」でした。



臨済将軍と称された豪放な家風の中国の名僧・臨済禅師が

「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(むい)の真人(しんにん)有り. 常に汝等諸人(なんじらしょにん)の面門より出入す. 未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」

「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!さあ見よ!」と、


弟子たちが早くお悟りを開くようにと、熱誠をもって叱咤激励する臨済禅師の獅子吼です。





私の父は、私が高校3年の2月11日、なんの前ぶれもなく心筋梗塞の発作で目の前で急に亡くなりました。

わずか30分ほどの間の二度目の発作で、断末魔の叫び声をあげて、あっけなく死にました。


今まで暖かい血が通い、笑いもし怒りもした肉体が、呼べど答えぬ躯(むくろ)となり、火葬されお骨と化す。

最初はただ呆然とするばかりで、私には父の死という現実を理解することも、受け入れることもできませんでした。


やがて「お父さんは、もう二度と帰ってこないんだ」と理解した時、止めどもなく涙がでてきました。

それからは、心の中を木枯らしが吹きすさぶような悲しみと淋しさが支配しました。
そして今まで、いかに大きな父の愛に支えられ自分が育てられてきたかを痛感しました。


「一流大学、一流会社に入って、すてきな嫁さんをもらって幸せに暮らす。」
そんな今まで知らない間に信じていた世間一般の価値観が、全く信じられなくなりました。


「お父さんは死んだ。人は死ぬんだ。地位、名誉、金、そんなものに何の価値もない。」
善悪さえも、信ずべき根拠を失いました。

外の世界にも、心の内にも、信じ頼りにすべき価値を失い、荒涼とした虚無感にさいなまれていた私は、友人の勧めで、ある新興宗教に朝早く起きて通ったりもしました。



そんな時に出会ったのが、「無位の真人」という臨済禅師の言葉です。


「無位は無依でもあって、なんの位も無い、なんら依存すべき価値もないところにこそ、真実の人が活き活きと生きておるのだ」という古田紹欽さんの解説によって知った臨済の言葉は、私にとって衝撃的なメッセージでした。

「地位、名誉、金等のランクもレッテルもない、善悪等の頼りとすべき価値もない、なんにもない無のただ中にこそ真の人が輝き出てくるというのか!禅というのは何とすごい、素晴らしい教えだろう…。」



それから大学の近くの禅寺に通って坐禅を始めました。


そして一年後、命がけで飛び込んだ大分の専門道場での一週間不眠不休で坐る臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)で、「無位の真人」を看ることが、「無位の真人」に成りきることができました。


隠寮前の楠の大木の下で、大の字になって真っ青に晴れた冬空を見上げていた私の頬を、歓喜の涙が止めどなく流れました。今までの一切の荷物を投げおろしたような安らぎに私の心は満たされていました。



今おもえば、父は、死という人生の真実を身をもってプレゼントしてくれたのです。そして、その「死」というプレゼントの中身は、生死を超えた大いなる命との邂逅でした。



それは、父からの最後のそして最高のプレゼントだったと思っています。








多くの人に届きますように
これからも応援よろしくお願いします




Posted by Blog Ranking at 09:11