2007年08月11日

禅とは


さて、公案についてお話しする前に、今朝早く目が覚めて思ったことをそのままお伝えします。



【布団から起きながら】

「アッ!4時半か、Aさんのブログに寄稿しなけりゃ…。」


【トイレにて】

「ウーン、しかし、公案についてどう書けばいいのかな…?」

「禅は語るべからず行ずべしと、言うものなあ…。」

「だいたい自分自身、読んだり、書いたり、話したりが好きで、
 朝のお勤め(読経)や、掃除や、草取りの禅僧としての日常を
 おろそかにしているぞ。」
 
 
【ローカを歩きながら】
 
「いかんいかん、まだまだだ!先ず禅僧としてどう生きるかを、
 自らに問い実践しなくては。」
  
「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静体安然(ごもくどうじょうたいあんぜん)と
 言うけれど、語る言葉の世界と禅の悟りの境地について、先ず明らかにしてみよう。」


【書斎にて】
 床の間には、「福は東海の如し」の墨跡がかかり、達磨大師の像、
 ダライラマの写真、禅会の先輩の写真や、僧堂の老師の写真が並んでいます。
 
「そうだ!これからは朝起きたら、先ず敬愛するこれら禅の先輩や禅僧に三拝して、
 一日を敬虔な思いから始めよう。」
 
 ……床の間に線香を立て、三拝、三拝、また三拝する。
 


以上のように、Aさんのブログへの寄稿のおかげで、今朝も大切なことに気づくことができました。 

感謝!感謝!
 



そうなんです、語黙動静体安然(ごもくどうじょうたいあんぜん)と言うように、語ること、黙すること、動くこと、静にしてること、すべてが禅なのです。
 

禅とは、日常生活のすべてを成りきって行い、ひとつひとつの行為を禅定三昧の「体安然」の悟りの境地・悟りの地平においてすることです。
 

重要なことは、「衆生本来仏なり」というように、本来誰もが悟りの境地・悟りの地平に生かされているということです。


Aさんはブログで、「究極の体験とは、自分が天地宇宙と一体になる体験だ」と述べておられます。

正にその通りで、私たちは本来「天地宇宙と一体の命」に生かされているのです。



ただ、私という意識(=自我意識、個別意識)と、その意識とともに生ずる言葉の思いへのとらわれが、私たちを全体意識の「天地宇宙と一体の命」から分離させてしまうのです。


ちょうど、自我の個別意識は大海に浮かぶ氷の固まりのようなもの。


氷の自我は、大海の「天地宇宙と一体の命」に浮かんでいるけれど、勝手に固まって大海の暖かさ豊かさ自由さを忘れているだけです。

悟りとは、自我の氷が溶けて、もとの我が家の大海に帰することです。

ですから禅では悟ることを、「帰家穏坐」(きかおんざ)というのです。



本来自由な命を自我の氷と固めるのが、個別意識から生ずる言葉の思いです。

仏道・禅とは、自我の氷を溶かし無くすことであり(仏道とは無我にてそうろう)、なによりもそれは、暖かい慈愛の心を知ることであり、


個別意識を去って全体意識・知恵をもって生きることです。




次回は、悟りの境地・地平と言葉との関係について明らかにしてみましょう。


禅問答の多くは言葉によるもの、禅と言葉との関係は重要なところです。







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Posted by Blog Ranking at 08:13