2007年08月13日
禅と言葉
今日も向和尚から寄稿していただきました。
・・・・・・・・・・・・・
「人間の最大の発明は言葉である。」
と言われるぐらい、言葉は人間にとって大切です。
言葉があるからこそ、知識の伝達・蓄積・発展が可能となり、今日のような文明社会が出来てきたわけです。
反面、言葉は恐ろしい働きもします。
「正義」、「自由」等の美しい言葉によって、戦争を正当化したり、言葉の暴力によって、人を傷つけ死に追いやることすらあります。
普段の生活で、なにげなく使っている言葉でもさまざまです。
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」、「アーメン」などの祈りの聖なる言葉。
歌や詩の美しい言葉。
「お早う!お元気ですか」といった挨拶の言葉。
「ウアッ!きれい」とか、「アー!ありがたい、もったいない」とかの感動や感謝の言葉。
「お前は本当にバカで駄目な子だねえ」といった、人を否定し傷つけるような言葉等々…。
ここで気づくことは、
言葉は、その人の心の内容をこめ表現する手段、容器のようなものであることです。
ですから、
「あなた、きれいねー!」と言われても、素直にうれしく感じることもあれば、ゾクッと背すじが寒くなることもあるわけです。
容器(言葉)の美しさも大切でしょうが、なによりも容器(言葉)にこめられた心の内容が重要です。
言葉だけではなく、身体の姿やしぐさも同様に、その人の心の内容をこめ表現する容器のようなものです。
黙っていても、人はその身体の姿やしぐさで、心の内容を表現し伝えています。
「親父の背中を見て育った」というように、たとえ無口な父親でも、生きる姿勢、身体の姿やしぐさが、心のメッセージとして子供に伝わっているのです。
ですから、なによりも大事なことは心の内容であり、その人がよって立っている心の境地です。
「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静体安然」というのは、どんな言葉や身体の姿・形をとっても、常に心の内容が体安然の悟りの境地にあるということです。
臨済禅師は喝を吐き、徳山は棒をもって弟子を叩き、維摩居士(ゆいまこじ)は黙し、
趙州(じょうしゅう)は「む!」と言い、又「まあ、お茶でも」と言う、
達磨は「不識(ふしき):知らん」と言うように、過去の優れた禅の祖師方は、常に「天地宇宙と一体」の悟りの境地の丸出しです。
ですから禅の真髄・旗印を、
不立文字教外別伝(ふりゅうもんじきょうげべつでん)
直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)
と言います。
文字にたよる、文字による説明ではなく、文字を離れ、言語は亡び無くなった境地において、直に心源・悟りの境地をしめして、成仏・悟りの境地に導くことです。
幻想である自我意識・個別意識から生じた思いにとらわれて、説明的言語・理屈の世界に終始する迷いを破り、本来の、天地宇宙と一体の命、全体意識・宇宙的無意識に至らしめる。
こうした、破壊的な力を発揮するのが禅問答における、祖師の言葉であり振る舞いです。
忘れてならないことは、専門道場のように、坐禅・托鉢・作務等の三昧に成りきる行による自我意識の溶解の過程があってこそ、参禅問答も意識の壁を破るほどの力を発揮するということです。
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禅の世界は単純にして奥が深い。
これからもいろんな角度から紹介していけたらと思っています。
向さん、ありがとうございました。
応援よろしくお願いします。
↓

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「人間の最大の発明は言葉である。」
と言われるぐらい、言葉は人間にとって大切です。
言葉があるからこそ、知識の伝達・蓄積・発展が可能となり、今日のような文明社会が出来てきたわけです。
反面、言葉は恐ろしい働きもします。
「正義」、「自由」等の美しい言葉によって、戦争を正当化したり、言葉の暴力によって、人を傷つけ死に追いやることすらあります。
普段の生活で、なにげなく使っている言葉でもさまざまです。
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」、「アーメン」などの祈りの聖なる言葉。
歌や詩の美しい言葉。
「お早う!お元気ですか」といった挨拶の言葉。
「ウアッ!きれい」とか、「アー!ありがたい、もったいない」とかの感動や感謝の言葉。
「お前は本当にバカで駄目な子だねえ」といった、人を否定し傷つけるような言葉等々…。
ここで気づくことは、
言葉は、その人の心の内容をこめ表現する手段、容器のようなものであることです。
ですから、
「あなた、きれいねー!」と言われても、素直にうれしく感じることもあれば、ゾクッと背すじが寒くなることもあるわけです。
容器(言葉)の美しさも大切でしょうが、なによりも容器(言葉)にこめられた心の内容が重要です。
言葉だけではなく、身体の姿やしぐさも同様に、その人の心の内容をこめ表現する容器のようなものです。
黙っていても、人はその身体の姿やしぐさで、心の内容を表現し伝えています。
「親父の背中を見て育った」というように、たとえ無口な父親でも、生きる姿勢、身体の姿やしぐさが、心のメッセージとして子供に伝わっているのです。
ですから、なによりも大事なことは心の内容であり、その人がよって立っている心の境地です。
「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静体安然」というのは、どんな言葉や身体の姿・形をとっても、常に心の内容が体安然の悟りの境地にあるということです。
臨済禅師は喝を吐き、徳山は棒をもって弟子を叩き、維摩居士(ゆいまこじ)は黙し、
趙州(じょうしゅう)は「む!」と言い、又「まあ、お茶でも」と言う、
達磨は「不識(ふしき):知らん」と言うように、過去の優れた禅の祖師方は、常に「天地宇宙と一体」の悟りの境地の丸出しです。
ですから禅の真髄・旗印を、
不立文字教外別伝(ふりゅうもんじきょうげべつでん)
直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)
と言います。
文字にたよる、文字による説明ではなく、文字を離れ、言語は亡び無くなった境地において、直に心源・悟りの境地をしめして、成仏・悟りの境地に導くことです。
幻想である自我意識・個別意識から生じた思いにとらわれて、説明的言語・理屈の世界に終始する迷いを破り、本来の、天地宇宙と一体の命、全体意識・宇宙的無意識に至らしめる。
こうした、破壊的な力を発揮するのが禅問答における、祖師の言葉であり振る舞いです。
忘れてならないことは、専門道場のように、坐禅・托鉢・作務等の三昧に成りきる行による自我意識の溶解の過程があってこそ、参禅問答も意識の壁を破るほどの力を発揮するということです。
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禅の世界は単純にして奥が深い。
これからもいろんな角度から紹介していけたらと思っています。
向さん、ありがとうございました。
応援よろしくお願いします。
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