2007年09月06日

源を生きる

達磨が「不識」(知らん)と言いはなった地平は、すべての存在が名もなく区分けもされていない、一なる「あるがまま」の世界です。

身をも心をも放ちわすれてその原初の一なる地平に立つことによって、人は天の命に従い、随神(かんながら)の道を歩むことができるのです。

一なる世界は、あらゆる生命の源泉であり、私たちは源泉こそを目標としなければなりません。

源泉から離れ分かれてしまえばしまうほど、生命は枯渇し病み衰えていくのですから。



古くから日本人が「天」と呼び「神仏」とあがめてきた一なるものを忘れ、人間をバラバラの個人としてとらえて、競争・対立にかりたててきた戦後の個人主義が、民族生命の枯渇、気概の喪失を招きつつあることは明らかです。


一なる地平からすれば、OさんもKさんも、みんな自分とひとしく天の、神仏の大いなる意志に生かされている、共に手に手をとって大道を歩むべき同志のはずです。

しかしながら、人間はなかなか自己中心性から脱却し、私意を離れることができません。ですから、実社会の人間関係において大切なことは、対立する人をも一なる地平から敬い愛することでしょう。

そうした日々の努力・修養が、自己中心性から自分を解放して一なる地平に導いてくれるのです。

すべての人を敬愛し、「幸あれかし」と祝福の念をひそかに贈ることです。



法華経の二十番目の常不軽品に出てくる常不軽菩薩は、そのような人間のありかたの模範です。

常不軽菩薩は「但行禮拜」(たんぎょうらいはい)といって、相手が出家であれ,在家であれ、男であれ、女であれ、誰にでも礼拝して、このように讃えたそうです。



「私はあなた方を深く敬います。あなた方を決して軽んじず、あなどることを致しません。あなた方は皆、菩薩道を行じて仏になることができるのですから。」


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わかっちゃいるんですけどね。

なにせ持ち前の業の深さというか、修業不足とういうか、すぐに分離の世界に入って、あれこれの考えに巻き込まれてしまいます。


坐禅をしているときはいいんですけど、生活の中にもどると、すぐに元の自分になってしまうのは、やっぱり腹の力不足でしょうか。



空から悟り光線でも降ってこないですかね。

みんなで「いまここ」の、一なる源泉に気がついちゃうみたいな。







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Posted by Blog Ranking at 09:47