2007年09月12日

禅後あれこれ 2

今回は、まず美しい漢詩の一節を紹介しましょう。


「長えに憶う 江南三月の裏 鷓鴣啼く処 百花香し」

“とこしなえにおもう こうなんさんがつのうち しゃこなくところ ひゃっかかんばし”
 


『無門関』第26則、離却語言(りきゃくごごん)の風穴(ふうけつ)和尚の境地です。


風穴和尚に、ある時一人の僧が問いました、

「語も黙も離・微(り・び)の相対、実在の半面しか示すことができません。
 語っても黙しても、実在そのものに通じるにはどうすればよいのでしょうか」
 

風穴は、

「いつも懐かしく憶いだすのだが 江南は春三月ともなると 鷓鴣が鳴き 百花が咲き乱れる」
 という詩を朗々と吟じました。
 

この美しい詩は、唐代の詩人杜甫の作であり、中国において最も風光明媚といわれる揚子江南岸の駘蕩たる春の景色を詠じたものです。



私なら、「アイ レフト マイ ハート イン サンフランシスコ…」と、
十八番の『思いでのサンフランシスコ』でも歌うところでしょう。



離・微とは仏教的世界観を説く言葉で、

「離」は、一切の言葉による区分を離れて平等の一なる地平に帰すること。

「微」は、その一なる地平から無限にはたらく現象の多様性を言います。



この僧は、
言葉を使っても沈黙するがごとく、沈黙しても言葉を使うがごとく、平等の一なる地平にありながら、区別の言葉を生かすところの境地を質問したわけです。


私たちは、うかうかすると言葉を使っているつもりで言葉に使われてしまいます。

言葉で名辞された世界を実在のリアルな生と取り違えてとらわれ、あれこれの思いに思いをかさねて迷うのです。


文明人とは、言葉により構築された幻想の価値体系の世界にとりこまれて迷っている「さまよえる子羊」かもしれません。


「迷う」というのは「思いの世界で迷う」のであって、前後際断して思いを断ち切れば迷いは吹っ切れ大地に帰し、自然児の原初の生命力がよみがえります。


このように、言葉による思いの迷いの世界に取りこまれず、原初の一なる地平から離れないで、

しかも自由に言葉を使うところの境地をこの僧は問うたわけです。



ところで、禅で「いまここが人生の本番」といっても、時間・空間に限定された「いまここ」の一点だけに生きよというのではありません。


「いまここ」の生に成りきり徹底することで、「いまここ」の底を破り、時空を越えた永遠の生に踊りでよというのです。



ですから、過去を憶い未来を想い、また想像の世界に飛翔することは、「いまここ」を基点としながら時空を越えた命の広がりを感得することです。



私は朝本堂で読経する時、観音様の自由自在な慈悲の働きを讃えた、「ナムカラタンノー」で始まる大悲呪(だいひしゅう)というお経を唱えます。



その時、私の身体は本堂にあるのですが、想いは雲となり水となり、時には大海原となって駈けめぐります。

あえてそのようにイメージしながら読経することで、「いまここ」の生が、より自由に、より豊かになっていくと感じているのです。


風穴和尚が吟じた
「長えに憶う」の「憶う」には、原初の一なる世界の騰々たるエネルギーが感じられます。

原初の一なる世界から言葉が出され、その言葉がまた一なる世界に溶けこんでゆく、素晴らしい境地です。



私たちも、言葉や思いにとらわれ、隷属するのではなく、言葉や思いを自由に創造的に使える主人公になりましょう。









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