2007年11月11日

宗教について

僕は宗教団体については外側しか知りません。

入信したこともありません。

実際に経験していないことをイメージだけで判断するのは、それこそが偏見かもしれません。


それでも宗教団体には違和感を持っています。


真理は己の中にあるからです。

宗教的体験とは、個人的な体験です。

突出した教祖の下で、何かを学ぶようなものでもありません。



人はみな同じものでできています。

あらゆる権威を排除することは、真理に到達する必要条件です。


それなのに自らが覚者として権威を持ち、衆生を導こうとする彼らは何者なのでしょうか。

心の底の底から本気で自分を救済者だと思っているのでしょうか。


だとしたら完全なパラノイヤです。


古今東西、そんな人達が後を絶ちませんが、僕から見ると、騙すほうも騙すほうなら、騙されるほうも騙されるほうです。

でもきっとそこには、お互いに補い合う需要と供給のバランスがとれているのでしょう。


支配して満足を得る人と、支配されることで安心感を得る人たちがいるからです。



もともと宗教団体や組織の原型になったのは、サンガ(Samgha)という考え方です。

サンガとは「ひとつの同じ目的のために集う仲間達」のことです。


サンガという言葉が僧という言葉に繋がっていて、もし我々が真理の体得と言う目的のために集えば、そこが僧院になるわけです。


そのために立派な施設が必要なわけではありません。


したがってそのような施設の建設のために、お金や労働力を提供するべきという考え方は、どこか歪曲されたものだと言えます。

それらの行為を布施と呼び、布施を怠ると悪い事が起きるとか、成長しないとかいう論法で、信者達に大きな負担をかけている組織がありますが、それは宗教の名を借りた搾取です。


これも布施という言葉の意味を、都合よく取り違えています。



霊や神などといった目に見えないものを扱う側の常套手段は、相手に怖れを抱かせることです。

もともと多くの人たちは自分に自信がなく、何か強いものの庇護を求めるので、彼らの絶好の的(まと)になるのです。

およそ霊的世界との付き合いにおいて、こうせねばならないなどという決まりはありません。

その世界はまったく次元の違う世界なので、この世のどんな言葉や行為でも捉えることはできないのです。


拝み方ひとつとってみても、国や文化が違えばしきたりが変わります。

違う文化の宗教家が、日本に来て日本流に拝んだり供養したりしなくても、罰が当たることもありません。



我々は見えない世界に対する確信が無いので、確信めいて発言する人に追従したくなってしまうのです。

多くの宗教組織は、そのような人間の心を逆手に取っている部分があると思います。



神は何一つ罰することはありません。

何事も罰しないのが神です。



さて、僕が知る限り、大手、準大手の宗教団体は、教義の8割がたは正しい教えです。

正しいと書きましたが、他の言い方をすればあたりまえの教えです。

真理はあたりまえなので、あたりまえでいいのです。


ところが残りの2割に、あたりまえでない部分があります。


それが教祖崇拝であったり、様々な美名のもとで繰り広げられる布教活動だったり、お金や労働や時間の提供だったり、自分たちの教義だけが正しいという姿勢だったり、何かしら組織の都合上持ち込まれた教えです。


確かにその団体に入会することで、心が軽くなったり、人生観が変わったり、商売がうまくいったりすることはあるでしょう。


でもそれは、そこに入らなくても違うきっかけでいくらでも道ははあるのです。

それをわが道こそ、わが教祖こそ、わが教えこそが一番だという態度が危険なのです。



多くの宗教も道徳も倫理も、理想主義です。

なるべき人間の姿を謳(うた)っています。


そして理想主義は必ず非難を生み出します。

なるべき姿になっていない自分を責めたり、道に反した人を批判したりします。


理想を掲げ、その理想に近づくために自分を変えようなんて思ったら運のつきです。

それは決して勝ち目のないゲームだからです。


理想はいつまでも理想のままです。

そして自分はいつまでもありのままの自分です。



もし「与える愛」が理想だとしても、われわれはいつもそんな状態にはいられません。

できるときもあれば、できないときもあるのです。


それがありのままの生身の人間です。


理想主義を生きる人は、遅かれ早かれ自分や周囲を欺きだします。

まるで理想の人になったかのごとく生きだすのです。


理想主義は時間の問題で偽善者を生み出す宿命にあります。


したがって、理想主義には2つの道しかありません。


敗北か偽善かです。



何故多くの人が、理想の姿を求めて入信するのでしょうか。


今までの人生で、よほど悪いことをしたのでしょうか。

いいえ、そのような人たちの多くは善良な人たちです。


ではなぜ彼らは、そのような道(宗教的道、倫理的道)に身を投じようとするのでしょう。



その答えは、彼らが苦しんでいるからです。

幸せではないからです。


その道に入って、指導者の言うとおりに自分を律して生きていけば、きっと幸せになれると考えるのです。

確かに、新しい考え方を導入することで、それまでの苦しみが緩和されることはあるでしょう。

自分は物質界を超えたレベルを学んでいるという特別さや満足感も得られるでしょう。


でも、その道は決して真の幸せには行き着きません。

真の幸せとは、本来の自分と一体化することであり、ありのままの自分を受け入れることだからです。


それなのに彼らは、自分ではない何かを求めて切磋琢磨していく道を選んでしまいました。


しかもその道の先には、理想を達成したとされる指導者が待っています。


「私の言うとおりにしなさい。正しい道は私が決めます。私は世界中の人を導くために生まれたのだ」




宗教の問題は誰も口にしないタブーですが、どこまでも検証するに値するものだと思っています。

なぜなら、僕たちの人生に最も大切なのは宗教性を学ぶことだからです。



宗教性はいわゆる宗教の専売特許じゃありません。

それは僕たちに内在した究極の可能性です。

何度も言いますが、それは特定の誰かを信奉し追随するものでなく、個として花開くことなのです。



したがって本物の宗教であれば、その団体や組織を離れて自立する魂を、次々に排出しているはずです。

そのような事実が、宗教団体が本物かどうかを判断するリトマス試験紙と言えるでしょう。


にもかかわらず、宗教的資質を高める事が、その団体の幹部に昇っていくことなどと言うのは、まったくおかしな話です。

そこにある目的は、個の開花ではなく、組織の開花です。



一旦信じてしまったものはなかなか他の観点から検証することは困難です。

僕も今までの人生の中で、数人の人を脱会させてきましたが、そこに費やしたエネルギーは膨大なものでした。


以前、XJapanのT君が、とある男性に心酔してバンドをやめた時、T君の家族が、「もし阿部さんがそばにいてくれたら」と話していたと聞きましたが、おそらくそうだったとしても、一度はまってしまった人を改心させるのは、僕には無理だったと思います。


すべてが悪いとは言いませんが、入信している人も、正直に心の中を覗けば、どこかに団体に対する違和感があるのではないでしょうか。


その違和感はとても大切です。


違和感を持つ事が不信心なんて思わずに、ニュートラルなところから常に検証するような余裕があればいいかと思います。




Posted by Blog Ranking at 11:26 │宗教について