2007年11月15日
未来の世界
これから先、どのような世界を作り出していけばいいのでしょうか。
子供たちや孫たち、あるいはもっと先の人類が、どのような社会で暮らすことがベストなのでしょうか。
おそらくそこに暮らす人たちが、幸せで、安全で、生まれてきた喜びを共に享受できるような世の中を、誰もが求めているのではないでしょうか。
そんなビジョンの世界を作り出すために、いま常識となっているいくつかの仕組みを根底から変える必要があると思います。
ひとつは「家族」という単位です。
家族とは、所有という概念に結びついています。
夫は妻を所有し、妻は夫を所有し、そして親は子供を所有します。
物は所有できますが、人間を所有すれば、そこに多くの抑圧や忍耐が生ずることになります。
そして個人の自由や尊厳を奪うのです。
現に、いまの社会にそれが起きています。
まったく愛が消滅した後も、家族や結婚の名の下に、互いに耐え忍び、本来味わえるはずの多くの喜びを犠牲にし、それが人生だとあきらめてしまいます。
それは人生ではなく、社会の制度に過ぎません。
制度は変えていけるのです。
家族が消えれば結婚という契約制度も無くなることでしょう。
男と女の間には愛があれば十分です。
愛があれば一緒にいることを望むでしょうし、愛がなくなれば互いに新しい出会いを求めて旅立つことでしょう。
それが自然な姿です。
愛は生きていますが、契約は死んでいます。
何事も、命あるものを命なきものによって束縛してはいけません。
そこに醜さが忍び寄るからです。
男も女も契約によって縛られるのではなく、常に自由な選択を与えられるべきです。
別れたい男女が別れられない原因のひとつに、子育ての問題があります。
もし家族という単位が消えて、同志が集まる共同体のようなものにとって変わっていれば、子育ては共同体の大きな役目のひとつになっていることでしょう。
主にそれは年長者の役目です。
最も知恵ある者達が子育てという大切な役目を担います。
ひとりの子供に対して、多くの知恵と愛にあふれる者達が面倒をみます。
特定の男女しか知らずに物心を持っていくより、多くの愛と知識に恵まれた環境で子供が育つことのほうが、健全な状態と言えるでしょう。
もちろん親も、会いたいときにはいつでも会える状態にあります。
生れつきのキリスト教徒も仏教徒もいなくなります。
その家に生まれたという理由だけで、特定の宗教に洗脳されていくことがなくなるからです。
そのことによって、宗教組織の基盤が薄れ、やがてそれらは姿を消していくことでしょう。
すべての個人が、常に自由な選択を与えられるのです。
しかし、それは単なる制度や仕組みの変革だけでは達成できません。
どのような理想的な仕組みも、それを運営する人間たちの意識のレベルが追いついていなければ、さらなる不幸をもたらすからです。
たとえば20世紀に起きた多くの共産革命がそのいい例でしょう。
マルクスが唱えた共産主義思想は、理念としては間違いではありません。
でもその思想の出現により、数千万人の人たちが犠牲になり、多くの矛盾を世の中にもたらしました。
共産主義は、自己の利益追求を放棄し、共に与えあい、共に生かしあう心理状態の人々によってしか達成されないのです。
マルクスが悪かったのではなく、その理念を導入した人達が、まだそれを運営するだけの意識レベルに到達していなかったので、このような結果を生んでしまったのです。
同じように家族制度が消滅して、そこに新たなる共同体が誕生したとしても、いまのままの人間の意識レベルでは、かえって問題を増やすだけでしょう。
共同体の中での自由恋愛も、多くの嫉妬や苦しみを生み、「自分」や「自分の~」という概念を持ったままの人達は、互いを批判しあい、やがてはその理想社会も崩壊していきます。
1960年代以降、そのような実験は各地で行われてきました。
理想を掲げた共同体(コミューン)は、時間と共に分裂し消滅していきました。
それはすべて、意識が理念に追いついていなかったからです。
そうなると、結局のところ必要なのは、制度の改革ではなく、我々一人一人の心の成長ということになります。
制度が人間を成長させるのではなく、成長した人間がより幸せな制度を作り上げていくのでしょう。
一方でテクノロジーの進化発展は目覚しいものがあります。
人間の肉体的な苦痛や不快感は、様々な工夫により多くが取り除かれました。
昔の人に比べて、現代を生きる僕たちは、かなりの快適な環境に暮らしていると言えるでしょう。
どこかに行くにしても、ほんのわずかな時間で行き着いてしまいます。
ここ沖縄も、東京から飛行機でわずか2時間余り。
昔は江戸に出るのに何ヶ月も要したのですから、当時の人から見たら、まさに夢のような時代に僕たちは住んでいます。
それじゃ僕たちが、あの時代の人たちと比べてどれくらい進化したかといえば、それは疑問です。
何も変わっていないのではないでしょうか。
僕たちは相変わらず争い、不誠実に、不正直に、人目を気にしながら暮らしています。
この数十年間で、スピリチュアルな世界に関心を持つ人の数は増えましたが、だからと言って成長したかと言うと、あまり変わっていないように思います。
たとえば、僕はここで宗教に対する自分の意見を述べましたが、それに対する反応の中には、とても幼稚なものがいくつか見受けられました。
スピリチュアルブームと人間の成長は、まったく異なるものだというのが実感です。
むしろ、ブームが安易な答えを与えることで、本来の成長の妨げになっている面が大きいようにも思います。
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子供たちや孫たち、あるいはもっと先の人類が、どのような社会で暮らすことがベストなのでしょうか。
おそらくそこに暮らす人たちが、幸せで、安全で、生まれてきた喜びを共に享受できるような世の中を、誰もが求めているのではないでしょうか。
そんなビジョンの世界を作り出すために、いま常識となっているいくつかの仕組みを根底から変える必要があると思います。
ひとつは「家族」という単位です。
家族とは、所有という概念に結びついています。
夫は妻を所有し、妻は夫を所有し、そして親は子供を所有します。
物は所有できますが、人間を所有すれば、そこに多くの抑圧や忍耐が生ずることになります。
そして個人の自由や尊厳を奪うのです。
現に、いまの社会にそれが起きています。
まったく愛が消滅した後も、家族や結婚の名の下に、互いに耐え忍び、本来味わえるはずの多くの喜びを犠牲にし、それが人生だとあきらめてしまいます。
それは人生ではなく、社会の制度に過ぎません。
制度は変えていけるのです。
家族が消えれば結婚という契約制度も無くなることでしょう。
男と女の間には愛があれば十分です。
愛があれば一緒にいることを望むでしょうし、愛がなくなれば互いに新しい出会いを求めて旅立つことでしょう。
それが自然な姿です。
愛は生きていますが、契約は死んでいます。
何事も、命あるものを命なきものによって束縛してはいけません。
そこに醜さが忍び寄るからです。
男も女も契約によって縛られるのではなく、常に自由な選択を与えられるべきです。
別れたい男女が別れられない原因のひとつに、子育ての問題があります。
もし家族という単位が消えて、同志が集まる共同体のようなものにとって変わっていれば、子育ては共同体の大きな役目のひとつになっていることでしょう。
主にそれは年長者の役目です。
最も知恵ある者達が子育てという大切な役目を担います。
ひとりの子供に対して、多くの知恵と愛にあふれる者達が面倒をみます。
特定の男女しか知らずに物心を持っていくより、多くの愛と知識に恵まれた環境で子供が育つことのほうが、健全な状態と言えるでしょう。
もちろん親も、会いたいときにはいつでも会える状態にあります。
生れつきのキリスト教徒も仏教徒もいなくなります。
その家に生まれたという理由だけで、特定の宗教に洗脳されていくことがなくなるからです。
そのことによって、宗教組織の基盤が薄れ、やがてそれらは姿を消していくことでしょう。
すべての個人が、常に自由な選択を与えられるのです。
しかし、それは単なる制度や仕組みの変革だけでは達成できません。
どのような理想的な仕組みも、それを運営する人間たちの意識のレベルが追いついていなければ、さらなる不幸をもたらすからです。
たとえば20世紀に起きた多くの共産革命がそのいい例でしょう。
マルクスが唱えた共産主義思想は、理念としては間違いではありません。
でもその思想の出現により、数千万人の人たちが犠牲になり、多くの矛盾を世の中にもたらしました。
共産主義は、自己の利益追求を放棄し、共に与えあい、共に生かしあう心理状態の人々によってしか達成されないのです。
マルクスが悪かったのではなく、その理念を導入した人達が、まだそれを運営するだけの意識レベルに到達していなかったので、このような結果を生んでしまったのです。
同じように家族制度が消滅して、そこに新たなる共同体が誕生したとしても、いまのままの人間の意識レベルでは、かえって問題を増やすだけでしょう。
共同体の中での自由恋愛も、多くの嫉妬や苦しみを生み、「自分」や「自分の~」という概念を持ったままの人達は、互いを批判しあい、やがてはその理想社会も崩壊していきます。
1960年代以降、そのような実験は各地で行われてきました。
理想を掲げた共同体(コミューン)は、時間と共に分裂し消滅していきました。
それはすべて、意識が理念に追いついていなかったからです。
そうなると、結局のところ必要なのは、制度の改革ではなく、我々一人一人の心の成長ということになります。
制度が人間を成長させるのではなく、成長した人間がより幸せな制度を作り上げていくのでしょう。
一方でテクノロジーの進化発展は目覚しいものがあります。
人間の肉体的な苦痛や不快感は、様々な工夫により多くが取り除かれました。
昔の人に比べて、現代を生きる僕たちは、かなりの快適な環境に暮らしていると言えるでしょう。
どこかに行くにしても、ほんのわずかな時間で行き着いてしまいます。
ここ沖縄も、東京から飛行機でわずか2時間余り。
昔は江戸に出るのに何ヶ月も要したのですから、当時の人から見たら、まさに夢のような時代に僕たちは住んでいます。
それじゃ僕たちが、あの時代の人たちと比べてどれくらい進化したかといえば、それは疑問です。
何も変わっていないのではないでしょうか。
僕たちは相変わらず争い、不誠実に、不正直に、人目を気にしながら暮らしています。
この数十年間で、スピリチュアルな世界に関心を持つ人の数は増えましたが、だからと言って成長したかと言うと、あまり変わっていないように思います。
たとえば、僕はここで宗教に対する自分の意見を述べましたが、それに対する反応の中には、とても幼稚なものがいくつか見受けられました。
スピリチュアルブームと人間の成長は、まったく異なるものだというのが実感です。
むしろ、ブームが安易な答えを与えることで、本来の成長の妨げになっている面が大きいようにも思います。
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Posted by Blog Ranking at 10:38