2007年12月23日
かんながらの物語 2
そうやって書き上げた<かんながら>でしたが、漫画にするという計画も頓挫し、どのように人に読んでもらうのか、方法がなくなってしまいました。
そこで、数百ページにおよぶ原稿をプリントアウトし、それを束ねて即席の本を10部作りました。
そして当時、ご縁があった人10名に贈呈しました。
するとその中の1人(大阪の開業医さん)が、これは多くの人に読んでもらうべきと言って下さり、印刷屋さんに発注し、立派な表紙までつけてくれたものを数百冊作ってくれました。
その時点での物語りは、「7つの鍵の巻」の弁財天による鍵の解説で終っていました。
そして一年後の2000年12月に、向和尚と開催していた禅スクールのHPを立ち上げました。
<かんながら>を読んでもらう、新しい媒体としてもHPはふさわしいと思ったからです。
HPの計画だけは、その5年も前からあったのですが、お互いに、お互いがやってくれることを期待し、なかなか実現しませんでした。
さすが本職の禅僧は、待つことにかけても僕より上手で、結局しびれを切らした僕が手作りで立ち上げたというわけです。
その直後、沖縄の放送局が僕を探し始めました。
音楽業界の誰に聞いても僕の行方がわかりません。
それを、フォークグループの「ふきのとう」の細坪さんが、自らのHPで僕の消息を探してくれるように呼びかけたところ、それを見た人が「奥山ZENスクール」という、立ち上げたばかりのHPに僕を発見してくれました。
もしHPの立ち上げが、もう少し遅れていたら、僕は今でも方広寺を舞台に心の研修会をやっていたと思います。
もし沖縄の放送局が・・・もし細坪さんが・・・もしHPが・・・
やはり人生には「もし・・・」はないのでしょうか。
沖縄に暮らすようになって、その後もHPに<かんながら>を掲載していましたが、ブログになってからは、本当にたくさんの人に読んでもらうことができています。
ありがとうございます。
現在、第二部を構想中です。
これからもよろしくお願いします。
そこで、数百ページにおよぶ原稿をプリントアウトし、それを束ねて即席の本を10部作りました。
そして当時、ご縁があった人10名に贈呈しました。
するとその中の1人(大阪の開業医さん)が、これは多くの人に読んでもらうべきと言って下さり、印刷屋さんに発注し、立派な表紙までつけてくれたものを数百冊作ってくれました。
その時点での物語りは、「7つの鍵の巻」の弁財天による鍵の解説で終っていました。
そして一年後の2000年12月に、向和尚と開催していた禅スクールのHPを立ち上げました。
<かんながら>を読んでもらう、新しい媒体としてもHPはふさわしいと思ったからです。
HPの計画だけは、その5年も前からあったのですが、お互いに、お互いがやってくれることを期待し、なかなか実現しませんでした。
さすが本職の禅僧は、待つことにかけても僕より上手で、結局しびれを切らした僕が手作りで立ち上げたというわけです。
その直後、沖縄の放送局が僕を探し始めました。
音楽業界の誰に聞いても僕の行方がわかりません。
それを、フォークグループの「ふきのとう」の細坪さんが、自らのHPで僕の消息を探してくれるように呼びかけたところ、それを見た人が「奥山ZENスクール」という、立ち上げたばかりのHPに僕を発見してくれました。
もしHPの立ち上げが、もう少し遅れていたら、僕は今でも方広寺を舞台に心の研修会をやっていたと思います。
もし沖縄の放送局が・・・もし細坪さんが・・・もしHPが・・・
やはり人生には「もし・・・」はないのでしょうか。
沖縄に暮らすようになって、その後もHPに<かんながら>を掲載していましたが、ブログになってからは、本当にたくさんの人に読んでもらうことができています。
ありがとうございます。
現在、第二部を構想中です。
これからもよろしくお願いします。
Posted by Blog Ranking at 12:25