2008年01月17日
続・欲望について
欲望については、少し込み入った部分があるので、さまざまな観点から話しをさせてください。
無欲という言葉がありますが、文字通り理解しようとすると誤解がついてまわります。
たとえば、悟りに向かうために欲望を否定して、欲望を捨てようとしても、それはまた新しい欲望です。
物質主義の世界に飽き飽きとして、すべてを捨ててヒッピーになった人を見てきましたが(僕も似たような経験があります)、それは単に物質主義の反動であって、対極に動いただけで、あいかわらず同じゲームの途上にあります。
無欲とは欲望の否定ではなく、欲望の不在なのです。
財産を捨て、家族を捨て、山にこもって修業を始めれば、それを見た人は、「あの人は欲望を捨てた」と思うかもしれませんが、実際には欲望の対象が富や名誉から神や悟りに変わっただけの話です。
少しはましかもしれませんが、思われているほどの違いはありません。
無欲というのは、欲を捨てようとすることではなく、求めるという質そのものが不毛だと理解することです。
そもそも欲望は落とすことはできません。
落そうとすれば、その反作用でしがみついてくるのがこの世の定めです。
落とすのではなく理解するのです。
欲望とは決して満たされることがないということ、どこにも行きつかないということ、その不毛性を理解することです。
理解すれば自然に落ちます。
無欲とは、この世の富や名誉などの馬鹿馬鹿しさに目覚めることではありません。
なぜなら、そこに気づいたとしても、今度は精神性や、神の世界や、悟りの世界を求めだすからです。
人生が無意味だからと言って(実際それはそのとおりですが)、死後の世界にあこがれたり、アセンションにあこがれたり、涅槃(悟り)にあこがれたりしても、結局は同じ事です。
その「求める」という質が変容したとき、そこに永遠の命「いまここ」があるのです。
ちょっとややこしい表現になってしまいましたが、とても重要なポイントだと思います。
また違う観点からお話します。
この情報が多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。


無欲という言葉がありますが、文字通り理解しようとすると誤解がついてまわります。
たとえば、悟りに向かうために欲望を否定して、欲望を捨てようとしても、それはまた新しい欲望です。
物質主義の世界に飽き飽きとして、すべてを捨ててヒッピーになった人を見てきましたが(僕も似たような経験があります)、それは単に物質主義の反動であって、対極に動いただけで、あいかわらず同じゲームの途上にあります。
無欲とは欲望の否定ではなく、欲望の不在なのです。
財産を捨て、家族を捨て、山にこもって修業を始めれば、それを見た人は、「あの人は欲望を捨てた」と思うかもしれませんが、実際には欲望の対象が富や名誉から神や悟りに変わっただけの話です。
少しはましかもしれませんが、思われているほどの違いはありません。
無欲というのは、欲を捨てようとすることではなく、求めるという質そのものが不毛だと理解することです。
そもそも欲望は落とすことはできません。
落そうとすれば、その反作用でしがみついてくるのがこの世の定めです。
落とすのではなく理解するのです。
欲望とは決して満たされることがないということ、どこにも行きつかないということ、その不毛性を理解することです。
理解すれば自然に落ちます。
無欲とは、この世の富や名誉などの馬鹿馬鹿しさに目覚めることではありません。
なぜなら、そこに気づいたとしても、今度は精神性や、神の世界や、悟りの世界を求めだすからです。
人生が無意味だからと言って(実際それはそのとおりですが)、死後の世界にあこがれたり、アセンションにあこがれたり、涅槃(悟り)にあこがれたりしても、結局は同じ事です。
その「求める」という質が変容したとき、そこに永遠の命「いまここ」があるのです。
ちょっとややこしい表現になってしまいましたが、とても重要なポイントだと思います。
また違う観点からお話します。
この情報が多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。


Posted by Blog Ranking at 20:08