2008年04月29日

意の大王(エゴの仕組み)

本来、自己という感覚(自意識)が架空のものだということは、何度も説明してきました。


もともと無いものを有ると思いこむためには、その自意識を常に維持して強めていかなければなりません。


その作用をつかさどるのが「意の大王」です。

たとえば、「いい人」を演じたり、「強い人」であり続けたり、「ユニークな人」でいようとしたり、自分のイメージやアイデンティティーを強固にするための、たえまなくやっている活動がそれです。



人間は無意識に、自己を確認し、感じていたいと思っているのです。



我々が本気で精神性を学び、いにしえからの教えの奥義を究めたいと思っているのなら、このポイントは極めて重要で、十分すぎるくらい注意しなければなりません。

「意の大王」はどんな体験も、自意識を維持することに変えてしまうからです。




そもそも教えの奥義とは、自我(エゴ)の不在性を見抜き、もとの無垢なる本質に帰りつくことです。

しかし、その教えさえも、自我(エゴ)を維持し高めるために使ってしまう危険性があるのです。



自我が消滅した状態を体感するのではなく、その状態を知的に解釈してわかったようなつもりになってしまう傾向がそれです。


自我を超えるための修行も、その修行の形態を学び、実践し、そのあげくに高い境地を真似て、それらしく振舞いだすことさえします。



我々は真理を学びたいと願いますが、そのためにはただひとつ、自我(エゴ)を消し去ることだけが必要なのに、それだけは最後の最後までやりたくないのです。


精神的な様々な教えや、修行の技法に精通したとしても、それは真の精神性とはかけ離れたものです。


自我が自分を維持するための策略になってしまうのです。



今まで多くの修行者たちを見てきましたが、そのような修行が、新たに自分を飾るエゴの材料になっている人たちも少なくありませんでした。




それが Spiritual Materialism 「精神の物質主義」です。







多くの人に届きますように、応援よろしくお願いします。

 意の大王(エゴの仕組み)



Posted by Blog Ranking at 08:35