2008年05月29日
神の波動は智慧と慈悲
神の存在感ということであれば、強くそれを感じた経験は何度もあります。
天河神社の奥宮は、弥山(みせん)という山の山頂にあります。
修験道の祖としても有名な役の小角(えんのおずぬ)によって、この山頂で祀られた弁財天は、その後、人々がお参りしやすいように、いまの坪内地区に祀られます。
したがって弥山山頂の奥宮は、本物の神の社です。
僕も何度か登頂しお参りしましたが、そこに行くたびに感じる神の気配があります。
それは西洋の怒れる神とは正反対で、どこまでも優しく受容的な波動です。
何か自分にやましいところを抱えたまま神の前に立ち、その自分を懺悔したり、罰が与えられないように必死で祈る姿を見ますが、天河の神は、人間のすべてを見通し、理解し、許してくれている、そんな感じなのです。
「いいよ、大丈夫だよ」
そんな声が聞こえてくる気がするのです。
初めて弥山に上ったとき、その山頂の鳥居の前で、あまりにも優しく心地よい波動に抱かれて、「ありがたい、ありがたい」そんな気持ちに覆われたことを思い出します。
その優しさには、底知れぬ知性が存在しているように思いました。
智慧と慈悲
この二つは、神を表す最高のシンボルだと思います。
ちょうど仏教の釈迦三尊像で、釈迦如来を中尊として、左に智慧の文殊菩薩、右に慈悲の普賢菩薩を配置しているのと同じだと思います。
天河神社の奥宮は、弥山(みせん)という山の山頂にあります。
修験道の祖としても有名な役の小角(えんのおずぬ)によって、この山頂で祀られた弁財天は、その後、人々がお参りしやすいように、いまの坪内地区に祀られます。
したがって弥山山頂の奥宮は、本物の神の社です。
僕も何度か登頂しお参りしましたが、そこに行くたびに感じる神の気配があります。
それは西洋の怒れる神とは正反対で、どこまでも優しく受容的な波動です。
何か自分にやましいところを抱えたまま神の前に立ち、その自分を懺悔したり、罰が与えられないように必死で祈る姿を見ますが、天河の神は、人間のすべてを見通し、理解し、許してくれている、そんな感じなのです。
「いいよ、大丈夫だよ」
そんな声が聞こえてくる気がするのです。
初めて弥山に上ったとき、その山頂の鳥居の前で、あまりにも優しく心地よい波動に抱かれて、「ありがたい、ありがたい」そんな気持ちに覆われたことを思い出します。
その優しさには、底知れぬ知性が存在しているように思いました。
智慧と慈悲
この二つは、神を表す最高のシンボルだと思います。
ちょうど仏教の釈迦三尊像で、釈迦如来を中尊として、左に智慧の文殊菩薩、右に慈悲の普賢菩薩を配置しているのと同じだと思います。
Posted by Blog Ranking at 12:04