2008年09月03日

性について

かんながらの物語の中で、性に関する記述がでてきます。


最初に見つけた「鍵」が、まさに性をテーマにしたものだったからです。


「性」という言葉を聞いて、あなたはどのような連想や感情が湧きますか。




セックス


性行為


いやらしい


隠されたもの


人には話したくない


公にはしたくない


恥ずかしい


命の源


気持ちがいい


・・・・



このような心の会話はすべて、その人の観念です。


「性」は「性」であって、それ以上でも以下でもありません。


「性とは・・・」の「・・・」がその人の観念なのです。




多くの場合、性に関しては否定的な観念を持っているようです。


いわばタブーのようにね。



街角で政治演説をしている人はいても、性に関して演説している人を見たことないですよね。


でも、実際には「性」は政治以上に僕たちにとって身近な存在です。


誰もが性行為の結果生まれてきたからです。



性行為と聞いて、何か特別な感情や、いごこちの悪さのようなものが出てきたとしたら、それだけ観念が強いということです。


じつはこのテーマは、極めて重要です。



性に対する否定的な観念の背景には、宗教の影響があると思います。

と言ってもはるか昔の宗教文化の中には、性を大らかに受け入れていた痕跡が見受けられます。



たとえばかんながらの物語にも登場する、イタリアのポンペイの壁画です。


大聖堂に描かれたそれは、まさに愛の行為そのものであり、宗教として性行為を否定するどころか、神聖なものとして見ていた証でしょう。

すでに当時、選挙制度も確立しているのですが、その立候補者の中には今で言う売春婦もいて、ポスターの位置などから、かなり身分が高かったことが窺えます。

性ということに対する観念が、今とはまったく違っていたということです。




日本においても、男性と女性のシンボルをそのまま御神体にしている例は各地にあります。


また、古事記に出てくる有名な天岩戸神話も、かなりエロチックです。


アメノウズメの命(みこと)が、踊るシーンは原文にはこのように書かれています。


神懸かりして、胸乳(むなち)をかき出で、裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき


そのまま訳せば、「胸を露わにして、腰の衣の紐を陰部にまで押し下げた」ということです。


それを見た八百万の神達が大笑いしたので、天照大神が何事とばかりに天岩戸をそっと開けたという有名なシーンです。


これなども、神話の時代には性をおおらかに扱っていたことが見受けられます。




さて、性に対する厳格な態度で真っ先に思い当たるのが、僧院や修道院などの宗教的な生活です。


性行為は神に対する冒涜のように考えられ始めました。



その影響でしょうか、キリストは処女から生まれたことになっています。

もしキリスト教がポンペイの壁画に見られるような態度で性を受け入れていたら、処女懐胎といった概念は生まれなかったように思います。


仏教にも釈迦の誕生に関して、同じような非現実的な話が伝わっています。


現代の性に対する観念の背景には、キリスト教と仏教の影響が少なからずあると考えています。



さて、僕たちは性に対して否定的な観念を持っているどころか、自分の中にあるそのような傾向を憎んでさえいるように思います。


たとえば、どこかに聖者と呼ばれる人がいたとしましょう。

わかりやすく、有名な教祖さんでも思い描いてみてください。


もしその人が大の食通で、おいしい食物に目がなく、やや食べすぎでメタボ症候群だとしたら、あなたはその人に失望しますか。


おそらく、それはそれとして大目に見るのではないでしょうか。

太り気味の教祖さんは多いですよね(笑)



それじゃあ、その人が大の女好きで、何人もの愛人を囲って、ハーレムのような生活をしていることが明るみに出たらどうですか。

大目にみますか。


いやいや、僕たちは決してそのことを許さないでしょう。

聖者の仮面をかぶって信者を騙していたペテン師だと言うかもしれません。


囲われていた愛人たちが、みんな幸せで、みんなが愛の暮らしを楽しんでいたとしても、第三者の僕たちがそれを許しません。


食欲に対しては寛大な僕たちも、性欲に対しては厳格な態度をとります。


何故でしょう。


そこに性に対する否定的な観念があるからです。



覚者は、聖者は、性欲を克服しているという大きな幻想がまことしやかに信じられています。


魂の成長と性欲の有無は何の関係もありません。

悟ったらインポになるわけではないのです。


ただし、性への衝動をうまく使いこなすという覚醒状態はあります。

修行を積んでそのような境地に達した人たちは数多くいることでしょう。


それでも、そのような状態と、魂のレベルとは、直接的な因果関係があるわけではありません。


性は、生きるということにおいて基本的な事実です。

性への欲求も、生きている限り消え去るものではありません。


これはちょっとうがった見方かもしれませんが、僧院や修道院が性に対して厳格で、性の衝動を克服することを強く求めた背景には、権力の維持といった目的もあったように思います。



性は自然な力です。

それを人間の意志で克服しようとしても勝ち目はありません。


しかしそれが成されなければ神から愛されないと信じ込めば、人は懸命に不可能なことに挑戦し続けます。

もし達成できれば、その人は自立して教会から自由になれますが、達成できなければいつまでも神の言いなりです。

あれこれと自分の至らなさを自覚し、どこまでいっても湧き上がる性の衝動に罪悪感を持つのが落ちです。


人が人を支配するとき必要なことがあります。

それは相手に罪悪感を与えることです。

そうすればその人は自分を信じれなくなり、権威に従いはじめます。


罪悪感を抱えた人を支配するのはいとも簡単です。

反対に、罪悪感を持っていない人を意のままに操ることは極めて困難です。


性を禁止してきた背景には、そのような意図もあったと感じています。



人間はずっと搾取され続けてきました。


神や道徳や正義や倫理といった制約が、本来の生き生きとした人間の喜びを妨げてきたのです。

本当にやりたいことをやれば非難されるような世の中を作り出してきたのです。


性が解放されるだけで、どれくらいの幸福感が取り戻せるかわかりません。


そこには家族制度を含めた社会のシステムそのものを見直す勇気が必要だと思います。



性に対する誤った観念が及ぼす影響の中に、罪悪感があります。

自分が否定的に考えている行為を、頭の中で考えただけでも罪悪感が生まれます。


あるがままの自分を認めようと思っても、あるがままの自分の中に性的な衝動や欲望が見え隠れし、そのような傾向を否定していたら、あるがままの自分など認められるはずがありません。


実際には、人間が持っているさまざまな面は、解決したり、克服したりすべき問題ではありません。


たとえば5本指の中で、小指が短いからと言って、死ぬまでに小指を克服するなんてバカなことはしませんよね。

小指の短さは問題ではありません。



同じように、心の欲求も、克服しなければいけないものではありません。

それは人間の一部です。


ところが性に関しては、いつか乗り越えなければいけないテーマのような誤った観念が植え付けられています。

勝ち目のない葛藤を強いられ、やがては消耗し、最後は罪悪感に浸ることになります。

「こんな自分なんて」というわけです。


罪悪感を持たないことは、幸せに生きる上でも大切な要素です。


ダメだと思うことをしなければ罪悪感はありません。

同時に、そのことをダメだと思わなければ罪悪感はありません。


性に対する誤った観念を書きかえれば、ずいぶんと楽に生きられます。



自分の中の衝動と、必要以上に戦わないことです。


あるがままでOKとは、まさにいまあるがままの自分でOKだということです。

いま以外の自分にはなれないのだと、早く気づきましょう。





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